PR
Search
Calendar
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
<< February 2015 >>
New Entries
Recent Comment
Category
Archives
Profile
Links
mobile
qrcode
RSSATOM 無料ブログ作成サービス JUGEM
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

posted by: スポンサードリンク | - | | - | - | - | - |
迷走日記 2月13日 走禅一如 2
JUGEMテーマ:癒し・ヒーリング
JUGEMテーマ:仏教
JUGEMテーマ:ジョギング
 

迷走日記 213日 走禅一如の可能性について その2

釈迦のヨーガから考える

 

 風呂上りに鏡で自分の体を見ると苦行時代の釈迦牟尼(シャーキヤ・ムニ)を思わせるような体形になってきた。ガンダーラから出土した像に筋肉を付けていったような感じですが、足だけは別の生き物のようになっています。足には立派な筋肉が付いていて、ふくらはぎは大きく盛り上がっています。ユニクロのスリムのジーンズではふくらはぎが引っかかって脱ぐのに手間取ります。

 シャーキヤ・ムニのムニとは黙々と修行に勤しむ行者のことを言います。シャカ族出身の行者のことです。仏陀(ブッダ)とは一般名詞で「悟った人」という意味です。サンスクリット語のガウタマ・シッダールタのガウタマとは「最上の牛」という意味です。シッダールタはバーリ語でシッダッタと言い「目的を達したもの」という意味です。サルバァールタ・シッダとの名も見られる。「いっさいの徳を備える」という意味です。

 この2週間に歴史書を読み漁りました。その結果、私には仏陀はモンゴロイドに思えます。そのことは今回のブログでのテーマではないので後日にしたいと思っています。

 

釈迦は偉大なヨーガの行者だった。仏教が興る前後にヨーガという行の体系が成立しています。ウパニシャッド聖典群の初期から中期にヨーガの体系が明らかになってきますが、釈迦の存在はそのあたりの時代となります。釈迦はジャイナ教のジナと共に広く大衆にヨーガを開いたと考えてもいいようです。釈迦はカースト(身分制度)やバラモンの神や輪廻を否定した。当時の権威からは異端の思想だったが、それは時代の先端の思想でもあった。ヨーガの本来の姿もそのような反バラモン・反権威的なものでした。

 

銅器の時代から鉄器の時代になると狩猟や農耕も変ってきますが武器も変り、社会の姿も変ってくる。ガンジス川とジャムナ川の中間地域は肥沃な土地であった。氏族制農村社会から都市社会へ移行していく。

 新しい時代には新しい思想が登場します。バラモンによる支配の強化、もう一方に原住民と融和を図る反バラモンの思想。強権的な支配はどんな時代でも理解しやすいが、融和的な思想は説明するのに少し解説が必要になります。当時の原住民の小さな集落群には、その集落ごとの独特なシャーマニズムがありました。多種多様なシャーマニズムに彩られていましたが全てに特徴的なのはそのシャーマニズムが集落の人々の生活に深くかかわっていたということです。融和にはこのシャーマニズムが障壁になることがあります。妄信している人々を説得するのは大変なことです。ヨーガという方法は「認識としての自己」「大いなる自己」「静寂な自己」を反復する回路を作り、自己が囚われている古い因習から解き放つことを説いた。心は洗脳の中にあるかもしれない。シャーマニズムには幻覚物質を使った祭事もあるので、そこからの解脱は並大抵のものではない。理屈での解脱は殆ど不可能と言っていい。農耕による余剰穀物が交易を発達させる。交易を盛んにするには理解しあえることが必要となる。それには、どのようにすればよいだろうか。

 「息のコントロール、感覚器官の抑制、瞑想、精神の集中、熟慮、そして沈潜」ヨーガはゆっくりと語りかける。絶え間なく静かに、心の動きの全てを停止する。そこには自己がいる。神に囚われた者ではなく、精神の働きを持った個体的原理(アートマン)がある。

 シャーマニズムからの開放には「西遊記」という玄奘三蔵の話が分かりやすい。玄奘は山の神である孫悟空と、森の神である猪八戒と、河の神である沙悟浄を守り神にして妖怪を退治しながら経典を中国に伝えるのですが、この妖怪というのが各地のシャーマニズムのことです。ヨーガも仏教も精神世界を説いて、人々を暗闇の恐怖から解く必要があった。

 

もし、宗教が世界を救えるとしたら、ヨーガかも知れない。勿論、フィットネス系ヨーガではありません。人々を金融資本主義の妄想から眼を覚まさせることが出来るのは、ヨーガという方法かも知れない。あらゆる既成宗教や宗派の枠を超え、人類の存在意義を覚醒させることが出来るのは、今の日本の仏教では垢に塗れすぎている。ヨーガにも神はいます。しかし、そのシバ神はヨーガを無事に修行することを願う「ヨーガの始祖」として崇敬される存在です。ヨーガには師弟という関係があっても、自覚と自立的な態度が基礎となります。ヨーガでいう聖なるものとは弁別智のことです。弁別智とは「心の働きの完全な停止」を実現した上での、自分を見る眼(プルシャ)のことではないかと思えます。「プルシャのかなたに何ひとつ存在しない。これが目標である。これが最高の歩みである。」(カタ・ウパニシャッド 湯田豊 訳)

 

 仏陀は苦行を捨てた。6年間の沈思黙行の末に、苦行でもない放逸でもない中道を悟った。そして四諦・八正道を説いた。

 中道とは弦楽器の弦の張り具合にも喩えられます。分かりやすい喩えです。インドといえばシタールという弦楽器があります。ラビシャンカール(1920年〜2012年)という名前に聞き覚えのある方も多いと思います。モントレーやウッドストックでの演奏に刺激を受けた中高年の音楽ファンには馴染み深い。ジャズシンガーのノラ・ジョーンズの父でもあります。ビートルズファンにはジョージ・ハリソンのシタールの師であることも知られています。実はジョージ・ハリソンにシタールを指導したのはラビシャンカールの日本人の弟子でした。彼はヨーガをヨーギと発音していました。シタールの演奏もヨーガであるらしく、ヨーガにもカーストがあるという話を35年程前に聞いたことがあります。ヨーギーとは男性のヨーガ行者で女性ヨーガ行者はヨーギニーといいます。観光客の前でヨーガを披露するヨーガ行者はカーストの最下層で、シタールの演奏者は中の層で、上位の層は山奥の人目に付かないところで修行をしているとの話は興味深く聞かせていただきました。古いヨーガはカーストを否定するものでしたが後年にはバラモンの価値世界に取り込まれたようですね。

 

 釈迦の四諦とは

苦諦(くたい)・・・人生は苦である

集諦(じゅうたい)・・・苦には原因がある

滅諦(めつたい)・・・苦を制してなくしてしまう

道諦(どうたい)・・・苦を制してなくしていくには道がある

 

 釈迦が苦行を捨てた理由が四諦から自ずと読めるではありませんか。わざわざ苦行をしなくても人生は苦難に満ちている。

 

 八正道とは苦を制して無くしていく道のことです。

正見(しょうけん)・・・正しい見解

正思(しょうし)・・・正しい思考

正語(しょうご)・・・正しい言葉づかい

正業(しょうごう)・・・正しい行為

正命(しょうみょう)・・・正しい生活

正精進(しょうしょうじん)・・・正しい努力

正念(しょうねん)・・・正しく記憶に留める

正定(しょうじょう)・・・正しく精神を統一する

 

 では、何を持って正しいというのだろうか?

 中道という修行、静かに安楽に坐ることで「正の姿」を悟ってみなさいということなのでしょう。精神が静寂の中で整っている、それは脳を究極にリラックスさせることで得られるバランス感覚だとしたら、脳科学的にも理に適っています。釈迦がヨーガによって得た境地は、人の脳のあり方を見透かしたものであったのです。

 

 ヨーガスートラにはヨーガの実践を8階梯で示しています。

禁戒(マヤ・きんかい)・・・道徳的自己コントロール

勧戒(ニヤマ・かんかい)・・・修行の心得・精神、準備

坐法(アーサナ・ざほう)・・・坐り方、姿勢・ポーズ

調息(プラーナーヤーマ・ちょうそく)・・・呼吸のコントロール、気の調整

制感(プラティヤーハーラ・せいかん)・・・感覚器官をそれぞれの対境から切り離す

凝念(ダーラナー・ぎょうねん)・・・心を一点に集中する、想念の固定

静慮(ディヤーナ・じょうりょ)・・・固定されていた想念を限りなく広げる

三昧(サマーデ・さんまい)・・・空という別次元

 

 私は禁戒と勧戒と坐法はヨーガのための準備段階だと思えます。調息、制感、凝念、静慮は一体のもののように思えます。調息を中心に制感、凝念、静慮は反復していくもののように思えます。解体、検証、再生を繰り返すことで、三昧という創造的世界が獲得できるのではないでしょうか。

 調息とは吐く息と吸う息を出来るだけ細く長くする。吐ききって止め、吸いきって止める。大宇宙の気を吸い込んで、生命のエネルギーにする。呼吸を腹の奥を意識して「細く長く」を繰り返すと、脳からα2波が出る。セロトニン神経が活性化されて脳が覚醒していきます。覚醒した脳で三昧という宇宙との一体感を楽しんでみてはいかがでしょうか。

息を吐ききり。感覚器官を止める。想念を止める。息を吸いながら想念を広げる。止める。吐く、止める。吸う、止める。「ヨーガとは心の働きの止滅」。

その後の13世紀頃のハタヨーガが私たちが知るヨーガの祖形となります。

 

走禅一如を釈迦のヨーガから考えてみると、やはり呼吸の工夫が必要でしょう。

呼吸のリズムを大切にして走ってみると分かったことがあります。どこかに無理な力みがあると呼吸が乱れやすい。呼吸が乱れるような力みのある走り方では故障しやすい。呼吸を意識して走ると、走りの組み立てに無理が生じない。呼吸は走りの命なので、呼吸のリズムで走りを考えることが必要でしょう。この呼吸で42.195キロのベストパーフォーマンスを実現できるだろうか?「頭を使って走る」とは呼吸を考えて走ることであるように思います。

苦行のような練習は故障の元になります。走りの八正道を考える。正しい努力をしているだろうか・・・。今日も黙々と走っています。

 

写真は姫路市豊富の善寿寺で撮影したものです。








 

posted by: 応援しよう東北!(雑華堂) 小嶋隆義 | 迷走日記 | 22:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
迷走日記 2月4日 走禅一如 1
JUGEMテーマ:癒し・ヒーリング
JUGEMテーマ:仏教
JUGEMテーマ:ジョギング
 

迷走日記 2月4日 走禅一如の可能性について その1

 

坐禅は独楽にたとえられます。綺麗に回っているときは止まって見えます。ゆらゆらふらふらしている独楽は軸がぶれている。私は頭頂部に紐がついていて、天からぶら下がっているようなイメージをもっています。坐っていると脳を中心に体中に気のようなものを感じます。神経細胞を駆け巡る電気的な信号なのでしょうか。

 

 坐禅の起源はヨーガにありますが、その起源はインダス文明にみられるという説もあります。アーリア人のバラモンの中に組み入れられて、数千年の時を経ています。坐禅という瞑想の形になって二千数百年の時を刻んでいます。日本では聖徳太子の頃には伝わっていたらしい。その坐禅が何故に現代にまで生きているのか、そこに坐禅の持つ魅力があるのでしょう。

 

脳科学的にも幾つかのことが考えられます。

脳には内側前頭前野に自分の行動を評価する機能があります。静かに坐禅をして得られる自己評価もあります。良いとか悪いという道徳的な自己評価ではありません。道徳的な基準は道徳的に判断すればよいでしょう。自らをコントロールしている自己評価を一旦全否定してみましょう。何が表われるでしょう。自分は自分という妄想に囚われていないだろうか。

方向定位連合野という自分と他者の境界を認識する部分があります。瞑想などによる世界との一体感や、時間や空間を超越した調和と目的を感じるのはこの部分です。この感覚を神秘主義ではなく「無や空」の体験として禅は捉えます。

ミラーニューロンという運動神経細胞は他者との共感という同一化した感情移入を行うことができます。他者の思考や感情を認識し推論することで、他者を体験することが出来る模倣学習を可能にする。禅のいう仏の姿や、尊敬する始祖を真似ることで先達と一体化しようというのはこの働きによっても可能だと思えます。

また、禅で得られる達成感も脳の健康には良い影響があります。

新奇探索遺伝子による新奇探索傾向が日本人は低いといいます。日本人はフロンティア・スピリットには欠けるかも知れませんが、腰を落ち着けて物事を深く探求しようとすることや、学習することに能力を発揮する遺伝子を持っているようです。つまり、日本人の遺伝的精神性は禅と相性が良いようです。

認知的焦点化理論は潜在意識での配慮範囲が広いほど幸福度が高いことを述べています。より多くの協力的人間関係を持ち、未来に展望を示せる配慮範囲が広い、「助け合い」の精神で生きているほうが人間的に自然なのです。つまり、利他的な思考を持つ人は利己的な思考を持つ人より幸福度が高いのです。坐禅でいう安楽とは、この配慮範囲をより広く捉えることを言うのではないかと思います。

 

静かに自分の奥へ入っていく。脳細胞がプラスに生まれ変わるのもマイナスになっていくのも日々の積み重ねが大切なのでしょう。人間の脳は妄想に騙されやすく、錯覚しやすく出来ています。静かに時間をかけて物事を考える意思決定回路を鍛える習慣が必要です。

心理学に割れ窓理論というものがあります。心のどこかに壊れた窓があれば早く修理しておきましょう。静かに座っていると心に隙間風を感じることがあります。壊れている場所は判っています。坐っていると、答えはいつも自分の中にあることがわかります。

 

人の脳は向社会性を持っています。世の為、人の為というのは人間の本能だったことを脳科学は明らかにしつつあります。しかし、それが正義という原理主義に結びついては正義という妄想になりかねません。世の為、人の為と言っても何が「世の為、人の為」なのか、問い返す作業が常に必要です。和辻哲郎の倫理学も西田幾太郎の善の研究も仏教に拠るところが大きいことも頷けます。

 

道元禅師は『正法眼蔵』「行仏威儀」の巻でこう言われています。

行仏(ぎょうぶつ)の威儀(いいぎ)を覰見(しょけん)せんとき、天上人間のまなこをもちゐることなかれ、天上人間の情量をもちゐるべからず。これを挙して測量(しきりょう)せんと擬(ぎ)することなかれ。

 

 人間の科学的な眼や思量や価値観を見直すとき、万物を愛する気持で見直すことが仏道修行なのなのでしょう。道元禅師は「菩提薩埵四摂法」で四つの菩薩行を示されている。布施(皆と生きる)、愛語(皆を愛する)、利行(皆のために)、同事(皆の幸せ)だと私は理解しています。科学や哲学や芸術も菩薩行でありたい。脳科学や心理学も「菩薩行」の行の内にあることを信じています。

 

 道元禅は「行仏」という仏の修行法を行うことで仏性を観るという特徴があります。作仏というように仏になろうということではないようです。そもそも「行仏威儀」にあるように、仏を「測量(しきりょう)せんと擬(ぎ)することなかれ。」ということなので、仏という厳然とした姿を求めても確固たる姿は捉えようがないということなのでしょう。仏は仏のように生きようとすることで仏になれるという当為にあると考えられます。道元禅師は仏教の悟りとは「眼横鼻直」(がんのうびちょく)というような有りのままを知ることだといわれています。目が横に付き鼻が縦についているという、そのままの姿を知ることなのでしょうが、そこに眼や鼻は人によって形が違うという意味も込められているように思えます。

「朝朝日東出 夜夜月沈西」陽は昇り、陽は沈む、しかし同じ日は二度とない。毎日、坐禅をしていても同じ禅はない。仏は求めようとしてもいつも違う姿をしている。仏性とは、それぞれに、それなりの姿をして、いつも新しく生まれているものだと、言われているように思えます。

 新しく生まれているものだから、これが仏だと悟ったときにはもう古い。古いものに執着しては何も新しくならない。「空手還郷」(くうしゅげんきょう)中国から持って帰ってきても新鮮なものではないので、良いお土産にはならないだろう。悟りは新鮮であることも重要であるような気がします。「放てば、手に満てり」古いものを捨てなければ、手の中には新しいものが満ちる場所がない。人生は常に「有時」(うじ)の「而今」(にこん)にあるという、今ここにある生まれたばかりの仏性に気が付きなさいと言われているように思います。それが「行仏」なのでしょう。

 

 峯の色 谷の響きも 皆ながら 吾が釈迦牟尼の 声と姿と(道元禅師和歌)

 

峰の色はいつも同じではない。響きは沈黙の中にある。よく見て、よく聴いて御覧なさい。気がついただろうか、仏性との新鮮な出合に。坐るとは「出合う」ことだろうか。

 

人の脳は五感という刺激を脳で知覚し、認知したものを認識に変えていく。坐禅をしていると五感が鋭敏になっていくのが分かる。坐禅後に外の景色を見ると、とても新鮮に映る。「十八界之聚散」で言うところの六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)が外界からの刺激を六境(色・声・香・味・触・法)という知覚・認知にし、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)という認識になる。六根を無にすると、今までと違った六境を体験する。六境を無にすると、今までと違った六識が出現する。六識を無にすると、今までと違った世界が観得る。ここに「釈迦牟尼の声と姿」があるのだろう。単に声だったものが釈迦の声になり、単なる姿形だったものが釈迦の姿になる。禅では脳の持つ特性をこれほど合理的に活用することが出来る。人は色あせない幸福・安楽を必要としているのです。

 

 道元禅師の禅を考えるときに、特に重要なキーワードがあります。

「無所得」「無所求」「無所悟」、坐禅を手段にしないということでしょう。得ようとするもがあるのなら、得ようとする所有欲が煩悩なのでしょう。求めるものがあるのなら、求めている自我に気が付かなければいけないのでしょう。自分が悟りの境地に入ったとしても、その時点での悟りでしかない。そもそもその悟りは本当の悟りだろうか。自問自答の坐禅や問答を繰り返すのも、悟りという妄想にならないようにするためのものでしょう。

道元禅師の「修証一等」という言葉は修行の姿に仏性が現れているということなので、修行をしようという心が仏心だということです。悟りとは、修行への志、そのものなのだと言われていると思います。

 脳は報酬系という内側前脳束に快感神経の神経繊維の束があります。この報酬系の快感を三毒(貪・瞋・癡)にまみれたものにしてしまえば、底無しの地獄が待っています。この報酬系の快感を菩薩道に活かせば極楽となるでしょう。人は自分でも意識しないうちに常にこの報酬系の神経を活性化させて要求を満足させようとしています。この神経を切ってしまうことは出来ないので、より高次な菩薩系の神経にしておきたいものです。

 

 道元禅から走禅は導き出せない。禅と走は別物です。一致させるとすれば、走る前に坐禅をして精神を整えてから走る、という組み合わせが無理の無いところだと思います。坐禅をするときは座禅に集中し、走るときは走ることに集中する。走りながら禅的な感覚は得ても禅にはならない、それが「只管打坐」という考え方です。走りながら悟りを得ようというのは「無所得」「無所求」「無所悟」にはなりません。

 道元禅から走ることを考えれば、走ることに集中できる環境を用意すること。走るときは「只管打走」。走ろうという志が大切。走ることがいつも新鮮であること。走ることが幸せであること。という当たり前のことを大切にすることなのでしょう。

 

写真は姫路市網干にある龍門寺境内です。次回からは姫路市豊富の善寿寺での写真になります。








posted by: 応援しよう東北!(雑華堂) 小嶋隆義 | 迷走日記 | 17:09 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |