-
社会学は役に立つのか?2013.03.30 Saturday
-
JUGEMテーマ:政治全般〜国会・内閣・行政
日本の難題をかたづけよう 光文社新書 を読む 3
2012年7月20日 初版1刷
安田洋祐 菅原琢 井出草平 大野更紗 古屋将太 荻上チキ+SYNODOS編
○この書の定価(本体840円+税)が、いかに安いか!!をお話しよう。
3章 社会学は役に立つのか? 井出草平
――引きこもりの研究と政策を具体例にして
日本をどうする?国民が学ばなければ、政治は動かない。 56
社会学とは何か?それは運命との闘いである、と私は思っている。自分にとって最も大きな権力は運命かも知れない。
たとえば事業に失敗した人がいるとする。デフレで人口減少社会で売り上げが落ちて、取引先の工場もリストラで大変なことになっている。貸し渋りで事業資金も底をついているところへ銀行の取り立ても厳しい。妻はいつも不満をこぼし、年寄りは良き時代の話ばかりをし、子供は大学へ行かなくなって、従業員の妻からは泣かれた。死ぬか・・・と思う運命論者は悲しい。しかし、たかが金で死ぬことはバカバカしい。ドラッカーでも読んで、天上大風の大きな気持ちで、自分ができることをコツコツやるしかないよな。とりあえず、花見がてらに七福神巡りにでも行くか。そんな気持ちで、再出発できるのが理想的ですね。
では、ドラッカーとは・・・。彼を経済学者ではない、という人はいないかも知れない。しかし私は社会学者だと思っている。「経済人」の終わり、から読んできて、彼が自分で「社会生態学者」と言っていることの意味を理解できたような気がする。そうです、事業に失敗した人は社会学を学ぶことで、自分を見つめる「もう一つの方法」を選んだのです。
社会学とは何か?という問いに、アンソニー・ギデンズは「社会学の視座」(社会学 第五版)でこういっている。
20p
社会学的に考えること―――いいかえれば、幅広いものの見方をすることは、想像力の養成を意味している。社会学を学ぶことは、たんに知識を獲得するお定まりの過程ではない。社会学の研究者は、自分の置かれた個人的状況の直接性から自由に離脱して、ものごとをもっと広い脈絡のなかでとらえられる人間である。社会学の研究作業は、米国の研究者、C・ライト・ミルズが名づけて以来有名になった社会学的想像力に依拠している(Mills1970)。
社会学的想像力は、熟知した、判で押したようなみずからの毎日の生活を新たな目で見直すために、そうした毎日の生活の当たり前のことがらから「離脱して、自分白身について考える」ことを、何にもまして私たちに要求する。
その「失敗した人」は、「絶望から離脱して、自分白身について考える」社会学的要請に従ったのです。
私が「七福神巡り」といったことに抵抗を感じる人もいるだろう。たとえば「宗教は麻薬だ」といったマルクスのように。それこそが運命論者ではないか、と。しかし、現代科学は、人間は自分の脳の内で麻薬を作ることを明らかにしている。脳内麻薬です。その意味で、皮肉にもマルクスは正しい。人は弱い生き物なので、信じることで救われることも多い。絶望的な運命を、明るい運命に置き換えようとする苦肉の策も一つの方法だろう。
長部日出男はマックス・ヴェーバー物語「二十世紀を見抜いた男」新潮文庫でこう記述している。
資本主義という「運命」499p〜
職業の有益さ、すなわち神に喜ばれる度合を決定するのは、第一に道徳的基準であり、つぎに生産する財の「全体」にたいする重要さで、第三は――実践的にはもちろんこれがもっとも重要なものだが――私経済的な「収益性」である。
けだし、ピユーリタンは人生のあらゆる出来事に神の働きを見るがゆえに、神が信徒の一人に利得の機会を与え給うとすれば、それは神みずからか意図し給うたものと考えるほかはなく、したがって信仰篤きキリスト者は、その機会を有効に生かすことによって、神の召命に応えなければならない。
もしそうしなければ、得られたはずの神の賜物を、神が求め給うたとき、かれのためにそれを用いることを拒む、ということになる。
神のために、あなたがたが労働して、富裕になるのは、よいことなのだ、富が危険なのは、それが怠惰な休息や罪の快楽への誘惑となる場合のみである。
主人から須けられたタラント貨幣を、働かせて利殖することをせず、それゆえに追放された僕(しもべ)の譬話(たとえばなし)(マタイ伝第二十五章十四節以下)は、そのことを端的に示していると考えられる。
確固たる職業のもつ禁欲的意義の強調が、近代の専門人に倫理的光輝を与え、利潤獲得の機会を摂理として意味づけることは、実業家に倫理的光栄をもたらした。
道徳的に弛緩した領主層や、成金風の見栄で富を誇示する金満家とは対照的に、落ち着いて市民的な「自力独行の人」が、輝かしい倫理的賞賛をもって迎えられることになったのである・・・。
自分が道徳的に弛緩してはいないか、成金風の見栄に囚われていないか、資本主義の運命の住人であったとしても、「自力独行の人」として輝かしい倫理的賞賛をもって迎えられる自分であるのかを、神仏の前でじっくりと考えてみるのも良いのではないでしょうか。
長部日出男は更にこう述べている。
58p
ヴェーバーは、西欧において営利を敵視するピューリタニズムの禁欲的な倫理が、どうして営利を追求する近代資本主義の精神にとって、ひとつの有力な促進剤になったのか、という一見不可解な逆説の解明を志して、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を著したが、近代性にはいまだに程遠いわが国の資本主義を、これまで根底において支えてきたのは、旧武士階級から伝わる封建的な名誉観念にもまして、来世における仏の救済を信ずるがゆえに、現世において不当な利益を得たり、不正な富を貪ることを潔しとせず、ひたすら勤勉に日日の生業に励みつつ、しかも武士の商法とは無縁のしたたかな合理性をそなえていた庶民の経済倫理、宗教倫理であったに違いないのである。
宗教と経済の関係を探るのは、いまも決して無意味なことではない。
「近代性にはいまだに程遠いわが国の資本主義」という下りについては、日本はまだ本格的な自由主義も社会民主主義も経験していないことを持って、理解される。
現世において不当な利益を得たり、不正な富を貪ることを潔しとしないことはドラッカーも言っている。わたくしブッディズム・コミュニタリアンとしては長部の言うことはよく理解できる。仏の救済という、運命を柔らかく受け入れる態度も有益であるのかもしれない。
アンソニー・ギデンズはこうも言っている。
43p
社会学を研究することと社会意識を喚起することのあいだには、多くの場合、密接な結びつきが見いだされる。社会学者自身は、変革や社会変動の実践計画を積極的に唱え、扇動するべきだろうか。社会学は、かりに社会学者が道徳論争や政治論争で努めて中立を守る場合にのみ、知的独立性を保つことができる、と一部の人たちは主張する。しかしながら、目下の論争に無関心な立場を保つ学者のほうが、そうでない学者よりも、社会学的争点の評価査定に際して公平無私なのだろうか。社会学の知識を身につけた人であれば、今日の世界に見いだされる不平等状態に気づかない人は誰ひとりとしていない。かりに社会学者が、政治的争点でどちらの側にも立たなかったりすれば変だろう。また、いずれか一方の側に立つ際に、みすからの専門知識を利用することをみずから禁じたりすれば、非論理的だろう。
そうです、中立こそ幻想なのではないでしょうか。「あらゆる仏道修行は菩薩道に通ず」として「デキノボー」として生きる者には、「アメニモマケズ カゼニモマケズ」という気持ちで「今日の世界に見いだされる不平等状態」と立ち向かっていくことも、社会学によって積極的に支えられるものとなります。
社会学を学び始めると先ず初めに気がつくのは「今日の世界に見いだされる不平等状態」です。初めの失敗した人が「死ぬか・・・と思う」ことも、個人の資質だけの問題ではない、と社会学は言うのです。自殺を例にしてとってみると。
日本の難題をかたづけよう、第4章社会学は役に立つのか? 井出草平――引きこもりの研究と政策を具体例にして、ではこう説明されています。
160p〜
・・・社会にある現象や問題を分析したからといって、必ずしも社会学にはならないことがわかります。つまり、学問の定義は、被説明変数(現象)ではなく、説明変数によって違ってくるわけです。
経済的要因で説明すれば経済学、心理的要因で説明すれば心理学、精神疾患で説明すれば精神医学、遺伝子的要因で説明すれば遺伝学・生物学になる。同じように社会的な変数で説明すれば社会学になるわけです。
デュルケームは、国や地域ごとの自殺率は中期的には変動しないということを発見しました。そこから、社会の性質によって、自殺の総数が規定されていると考えたわけです。その性質の一つが、紐帯の強さです。ネットワークの強さと言い換えてもいいと思いますが、孤立が強ければ自殺が促進される一方、紐帯が強すぎても自殺が増える。そのような紐帯の強さは社会・地域によって異なり、それが、それぞれの社会や地域の固定された自殺率としてあらわれるというのがデュルケームの『自殺論』です。
・・・
湯浅誠は「経済成長って何で必要なんだろう?」でこう述べていた。
210p〜
湯浅 何か経済合理性かという問題だと思います。
例えば、派遣切りにあって職も住居も失った人にとって、もっとも合理的な就職先は寮つき・日払いの仕事です。それは有効求人倍率がいくらであろうが、変わらない。これも経済合理性に沿った選択だというなら、合理性を踏みはずす人はいないと思います。人身売買も経済合理性に沿った行動だとなるでしょう。
実際、一般にきわめて生活保護が受けにくいなかで、寮に入れて飯を食わしてやるといって生活保護をとらせて、通帳も印鑑もとりあげて本人を囲い込んでいる悪質な施設が、全国には1万人分以上あります。しかし、本人は入居に承諾している。それも、需要と供給が合致しているんだといえば、そうです。
しかしそうした状態を全体として放置していくと、社会はもたない。すでにこの異常な自殺率、異常な少子化か、日本社会がどうにもならなくなってきていることを示していると思います。その意味では、非常に素朴かつ単純な言い方になりますが、人々の幸福や社会の存続と両立する経済学を期待したいです。
湯浅の言うような「人々の幸福や社会の存続と両立する経済学」とは社会学との共同作業が必要なのだろう。
井出草平は、アメリカの組織論の社会学者であるアミタイ・エツィオーニは研究を「応答するコミュニタリアン」という原理に基づいて設定します、と述べて、
166p〜
「応答するコミュニタリアン」とは、どういうことかというと、例えば、犯罪や非行を減らしたいなど、コミュニティには何らかのニーズがあるとまず仮定します。そのニーズに対して、何らかの対策を講じるのが専門職の役割であり、それが専門家としての「応答」だとします。コミュニティからのニーズがあるとき、それに応答するのは、社会学者でも経済学者でも誰でもいい。要するに、専門家は社会に応答する形で専門的知識を持って対策にあたるべきだということです。
167p
エツィオーニの議論を参考にして、僕は「応答」という概念を社会学の営為の中に組み込めないかと考えています。
本章の冒頭で、学問が「役に立つ」べきかどうかについて考えてみました。「役に立つ」という発想を学問の中に入れ込むとしたら、エツィオーニの言う「応答」の概念を通して考えるのが、最も良いのではないかと考えています。ニーズがあるということは、誰かから役割や仕事を求められているということです。社会学にとって「役に立つ」というのは、ニーズに対して専門性を生かした形での応答を行うということになります。
著者のいう「応答」という考え方はシンプルで説得力がある。これも長部が言う職業的な倫理であるのだろう。
社会学は役に立つのか?という問いは、社会学をどう学ぶのか、という読み手側に主導権がありそうです。本論の「引きこもりの研究と政策を具体例にして」は社会学の入門には最適だと思います。また和歌山大学の取り組みでの、「正しく困らせてあげる」の含蓄の深い言葉には感動しました。
-
データで政治を可視化する2013.03.29 Friday
-
JUGEMテーマ:政治全般〜国会・内閣・行政
日本の難題をかたづけよう 光文社新書 を読む 2
2012年7月20日 初版1刷
安田洋祐 菅原琢 井出草平 大野更紗 古屋将太 荻上チキ+SYNODOS編
○この書の定価(本体840円+税)が、いかに安いか!!をお話しよう。
2章 データで政治を可視化する 菅原琢
日本をどうする?国民が学ばなければ、政治は動かない。 55
菅原琢の世論の曲解――なぜ自民党は大敗したのか、光文社新書には度肝を抜かれた。政治をデータ分析で読むことの、コロンブスの卵を見せつけられた者の思いだった。
ビジネスの世界では当然であったことが政治の分析には用いられなかった。何故だ。政治はビジネスと違って哲学的で社会学的なものだと捉えられていたのか?それとも、ビジネスほどの緊張感を伴なうものではなかったのか?ビジネスほど残酷な結果責任を突きつけられることがない世界であったのか?そうだ、国民は政治を買いかぶり過ぎていたのではないだろうか。それとも、ビジネスほど魅力のあるものではなかったのか。既に、政治はマスコミや経済に翻弄されて、力を失っていたのか。政治は、綱領的立場の尊守、総路線に基づいた戦略と戦術の確定、という最も政治的な部分をビジネスに奪われていたのか?日本の政治はアメリカに任せたきりだったので、日本での分析は必要なかったのだろうか。政治は現実を覚醒させるものではなく現実を隠蔽するものなので、分析をする者が忌嫌われてきた、という最悪の考えも浮かんでくる。
世論の曲解の「はじめに」では著者の方法論が簡潔に述べられている。
16p〜
確証バイアスをどのように克服するか――本書の手法と構成
人は、自分の考えや事前に有している印象や情報にしたがって、物事を解釈しがちである。さまざまな情報やデータが周囲にあっても、自らの考えに合致する、都合のよいものだけを選び取ってしまう習性がある。少し難しい言葉で言えば、これを確証バイアスという。
・・・確証バイアスを極力避けるためには、なるべく多角的にデータを集め、確認していくことが大切であると考える。単に事例をコレクションするだけのやり方では、バイアスはいくらでも発生してしまう。少なくとも筆者はそう考える。本書では、多くのケースによって成り立つ計量的なデータを中心に扱い、しかもなるべく可視化されるような手法を用いて議論を展開していく。表とグラフを多用し、これらを「読む」作業を繰り返す。そしてなるべくその「読み」とは異なる仮説も想起し、これを潰す作業も行う。
世論の曲解では前の安倍政権の分析も行われている。これからの安倍政権を占う上でも大いに参考になる。要約すると、こんな感じかな。
自民党は、旧来の支持層ではもはや勝てなくなっていた。郵政選挙をひとつのピークとした小泉政権は、それまで自民党を支持してこなかったような人々、都市部の若い世代や中年層の有権者を惹きつけて一定の支持を獲得し、これを基盤に政権を維持することに成功した。しかし、安倍政権は「古い自民党」を復活させ、必然の結果として敗北した。
「年金問題への対応」年金問題の失政という、過去の自民党政権の負の遺産が政権批判へとマイナスに作用し、05年に自民党に投票したような若年層・中年層は、「憲法改定の方針」の不評に見られるような安倍政権のイデオロギー的性格も忌避し、小泉時代に獲得した支持者を手放すきっかけとなった。
内閣支持率が下落する最も大きなポイントとなったのは、郵政造反組の復党問題。小泉の構造改革路線が自民党に投票したような人々の間で根強く評価され続けていたのだ。
安倍の国民投票法や北朝鮮問題への取り組みや、「中国、韓国との外交関係」に関して就任直後に中国や韓国を訪問したことへの評価は高かった。安倍政権に特色的な政策・方針については、一定の評価が与えられていた。しかし「改革への後退」と「イデオロギー路線」は、小泉を支持していた革新と呼ばれていたような「野党的」層に見放されていった。
小泉登場までの自民党は危機を迎えていた。この危機への対応策として導入したのが小泉構造改革路線だとすれば、安倍政権とは、この不可避的な衰退という「古い自民党」の運命に、ふたたび引き戻すものとなった。
116p〜
07年参院選は、その審判が下されたものであったが、それにもかかわらず、07年参院選の敗北はむしろ自民党に正反対の「反省」、さらなる「反動」をもたらしてしまった。多くの論者が自民党の大敗を逆小泉効果だと指摘し、これに乗じた多くの自民党議員が地方の衰退を訴え、参院選後の自民党内の政策と政局は「古い自民党」優勢に動いた。そして、小泉構造改革路線では抵抗勢力とされたような人々が発言力を回復し、さまざまな政策にも影響を与えるようになったのである。小泉構造改革路線を踏襲しようという動きは、多数派である逆小泉効果神話に圧倒され、「沈黙の螺旋」よろしく、声が出せなくなってしまった。
・・・この参院選の後すぐに、安倍による前代未聞の政権投げ出しが起き、福田康夫が首相に担ぎ出される。年明けにはガソリン税の暫定税率をめぐり与野党間の論戦が活発となり、「古い自民党」が目立ち始める。自民党内では、道路族と呼ばれる議員たちが活発な運動を見せて、自民党政治=「無駄な公共事業」というイメージが定着した。
思い返せば宇野内閣(1989年6月3日〜8月10日)前夜、無念のうちに退陣した竹下登の穴を埋めるのは、ニューリーダーの安倍晋太郎か宮澤喜一のどちらかのはずであった。しかし、安倍は春から病に倒れ、夫人もリクルートの顧問をし、宮澤はリクルート社からの献金で蔵相を辞したという経緯があった。候補者は二転三転し、次善の策の宇野が暫定政権として位置づけた。しかし、わずか2ヵ月ほどで、総辞職を余儀なくされた。参院選挙の前に発覚した、首相自身の女性スキャンダルは、リクルート、消費税とともに、与党を痛撃した。(歴代首相の経済政策全データ 草野厚著 角川ONEテーマ21 参照)竹下の記録的な支持率の低下と相俟ってのこの頃の自民党の大凋落が、国民に政治不信を抱かせた源泉となるような、歴史的な分かれ目であったように思える。ここが第一期政治不信期であったとすると、第二期が安倍・福田・麻生の政党政治の脆さを見せつけた時期で、第3期は民主党政治の凋落であったように思える。
「政治主導」の教訓 勁草書房 第1章 民主政党と世論
で、菅原琢はこう述べている。23p
現在の衆院の選挙制度は、民主、自民という二大政党を区別しづらいものとしている。これは、有権者の政党支持の流動化あるいは無党派化と、政党内の対立の激化を生み出す。政党支持の流動化、無党派化は、内閣支持率の乱高下を直接生み出す。また政党内の対立は、内閣と与党の関係を不安定にさせ、内閣や首相の「指導力」や「安定感」の欠如という印象を生み出し内閣支持率を下げる。
以上の議論を踏まえると、内閣支持率が不安定なのは政治、政党と有権者の関係が遠く、政権与党を含む政党への支持が安定していないためである。したがって、内閣支持率の流動化を食い止めるためには、選挙制度を変更し、政党システムを安定させ、政党の凝集性を高めることが必要だろう。また地方政界との関係も整理していく必要がある。
民主党政治は自民党の政治不信の上塗りをする結果となってしまったことは残念だ。政治不信は、批判・諦め・霧散という行程で広範囲で根深いものになっている。安倍の健康問題は以前から指摘されているので、やはり不安が残る。現在のアベノミクスで政党の凝集性は維持しているものの、経済財政政策の負の部分が大きくなってきたときに、安倍の古い自民党的体質がどう評価されるようになってくるのかに、興味が惹かれます。憲法・防衛問題で、より強いイデオロギー路線を露にした政策が出てきたときの国民の反応も気になります。
注目すべきは「成年被後見人は選挙権を失うと定めた公職選挙法の規定を「違憲」と判断した東京地裁判決について、政府は27日、控訴に踏み切った。」ことです。
115p世論の曲解
ハンセン病患者との和解については、構造改革路線とは無関係かもしれないが、それまでの自民党政権の方針を一新する、画期的な施策であったと言える。これ以前の自民党政権では、この手の国に対する要求に対して冷たく、「死を持つ」対応であったのを、小泉政権が変えたのである。その後の福田政権では薬害C型肝炎訴訟において全員一律救済に踏み込み、麻生政権では原爆症認定集団訴訟の原告全員救済を打ち出すなど、小泉の敷いた路線を踏襲しており、それぞれ一定の評価を得ている。
自民党は控訴すべきではなかった。消費税の「福祉」をアピールするには絶好の機会であったように思えます。票のための「福祉」でしかないことを印象づけてしまったのではないだろうか。私ならば、未成年の子を持つ母には2票の権利を与えるというところにまで踏み込んだ政策を打つだろう。
日本の難題をかたづけよう データで政治を可視化する 菅原琢
では「一票の格差」の意味するもの、という項目がある。
131p
「一票の格差」は、よく新聞報道もされるし、数字を使って説明されているけれど、もう少し深く分析してみると、実は数字自体に騙されているというような側面があります。「一票の格差」最大値という数字を見るだけではわからない定数の不均衡、あるいは格差があるのです。
本書のデータと分析について読んで、判断してみてください。私達は騙されているのかもしれない。
150p
・・・たとえば、選挙制度をどうするかといった問題を考える際に政治家の主張を聞くことは、どれだけ意味があるでしょうか?
複数の国会議員や首長に話を聞きましたが、彼らは一様に候補者として有権者の前に立つ「効用」を訴えます。そうすることで人間が磨かれ政治家として成長するので、候補者を選ぶ選挙を止めるべきではないと異口同音に主張していました。でも、そうした磨かれた政治家が行っている今の政治は一体何なのだろうと、誰しもが思うでしょう。彼らは現行の制度で成功して来た人たちなので、今の制度を肯定するのは当然ですが、当事者の言説を通して政治を見るというのは、こうしたバイアスがついてまわるものです。
データ分析に限らず、社会科学の手法や思考方法は、こういったバイアスを克服し、現象の構造を整理して理解し、問題解決の糸口を見つけ出すのに有効です。
99p〜
○問題意識――政治報道の限界と俗説の流布
私は、日本政治に関してデータを作成し、これを分析して、これまで言われてきたことを検証したり、逆に言われてこなかった事実を発見したりするような研究を行っています。こうした方法を「計量分析」といいます。データを作り、それを多変量解析したり、グラフ化したりする。経済に関する現象では誰もが当然のように数値を元に議論していますが、政治に関してはまだまだ一般に馴染みのない方法だと思います。
・・・まず、なぜデータ分析が重要なのか、その背景にある問題意識を二つ提示しておきます。
一つは、昨今、政治報道に限界がきているのではないか、ということです。
かつての自民党の派閥政治では、派閥の領袖と呼ばれるような人たちを取材していれば、政治が見えると考えられていました。記者が有力政治家に張り付いて取材をして、「いま、現実の政治はこうなっている」ということを言っていればよかったわけです。
「政治」というものを掘り起こす政治報道のあり方自体が、手法的に限界にきています。
二つ目は、政治現象について本当かうそかわからない俗説のようなものが流通しているということです。もちろん、昔から俗説はかなり流通していますが、選挙と世論が昭和期に比べ政治に大きな影響を持つようになってきた中で、こういった俗説が政治に与える影響も大きくなり、無視できなくなってきました。
俗説が広まらないような「耐性」が、政治家や社会にも求められます。
101p
こうした問題意識を背景として、これまでの政治家の人間関係や言葉中心の政局報道的な政治理解から一歩進み、政治を全体的に把捉し、分析していくことが、研究者だけでなく政治家やメディア、そして有権者にも必要ではないかと考えています。計量分析は、そのための手法の一つです。
政治を考える上で、工学的な経済学と理学的な社会科学は、将棋でいう飛車角のようなものかも知れない。王将は倫理学だと思えますが、いかがでしょう。
-
マーケットデザイン2013.03.28 Thursday
-
JUGEMテーマ:政治全般〜国会・内閣・行政
日本の難題をかたづけよう 光文社新書 を読む 1
2012年7月20日 初版1刷
安田洋祐 菅原琢 井出草平 大野更紗 古屋将太 荻上チキ+SYNODOS編
○この書の定価(本体840円+税)が、いかに安いか!!をお話しよう。
1章 社会を変える新しい経済学
マーケットデザインの挑戦 安田洋祐
日本をどうする?国民が学ばなければ、政治は動かない。 54
私がマーケットデザインという考え方を意識し始めたのは、
「改革」のための医療経済学 メディカ出版2006年8月5日発行
兪 炳匡 Yoo Byung-Kwang:ゆうへいきょう著、を読んでからです。日本での講演会も物凄く話題になりました。経済界でも著名な方ですが、医学界では知らない人がいないぐらい有名な方です。地元の改革意識の高い医師達も意欲的に勉強しておられました。
この書に関しては、別の機会(公共政策学)で紹介したいと思っていますが、話のついでに少しだけ。
序文より
日本の医療分野における「改革」のためのこの書の提言内容は、諸外国の事例、特に経済学的視点からの実証分析と経済学理論を基に、4つに要約されています。
1つ目の提言は、
医療費高騰に対応する際に、「小物格の犯人]を追い回しても政策上のメリットはほとんど期待できない。
2つ目の提言は、
「政策の形成・選択を行うには、正解の存在しない『理念』に関わる問題への答えを明らかにする必要がある」ことです。
3つの具体例を挙げれば、たとえば、「最低限の医療は、政府が保障すべきか」「政府が最低限の医療の保障に関与すべきなら、政府支出のどの程度を医療に割くべきか」という問題です。
「どのようにして政府の財政負担を減らすか」という手段では「理念」抜きには語れない。政府の財政負担削減を至上の課題にすれば、多くの予防医療を「やめる」ことが有効な一案です。なぜなら、多くの予防医療を「やめる」ことで病気にかかり早死にすると、総医療費は節約できることを諸外国の厳密な医療経済研究が示唆しているためです。さらに、早死にした人々には年金を支給しなくてもよいので、財政負担を一層軽減できます。
3つ目の提言は、
日本の政策の形成・執行の各過程で評価を行うチェックアンドバランス機構を強化しなければ、改革は一度限りの打ち上げ花火で終わってしまうということです。
・・・7p
日本では欧米におけるようなチェック機構がきわめて貧弱です。日本では、外部の第三者評価に必要な情報・データの公開が遅れており、政策志向のデータ分析に関心を持つ研究者も不足しています。さらに、特定の企業や業界ではなく、住民全休や患者全体の視点を持つNPOや財団が、中立的な政策評価研究を資金的に支え、これらの研究成果を政策形成過程に反映させる機会も、日本では皆無に等しいと言えます。日本の制度の歴史的経緯や現状を軽視して、諸外国の制度の一部を強引に日本に移植しても成功しないと筆者は考えています。しかし、上述のような政策評価を含めたチェックアンドバランス機構を、できる限り多く日本の制度改革のためのインフラ(社会基盤)として整備することは可能であり、必要であると筆者は考えています。このような政策上の失敗にブレーキを踏めるインフラを整備しない限り、3章で紹介する政策提言・評価のための経済学理論・実証分析手法も、日本では単なる絵に描いた餅に過ぎません。言い換えれば、改革の方向・進捗状況すら判断できないままブレーキ・安全装置を外せば、とりあえず速度だけは上がることに嬉々とする類の大胆な改革が繰り返されるおそれがあります。
4つ目の提言は、
公的皆保険制度の役割を堅持した枠内で可能な改革案をまず実施することです。ハーバード大学のシャオ教授によれば、すでに日本の現行制度は、コスト抑制にきわめて有効で、普遍性の高い2つのタイプの政策を組み込んでいるからです。また、シャオ教授は、世界各地で失敗を繰り返した政策の例として、「患者の窓口負担増」「医療機関への診療報酬の一律引き下げ」「医療保険制度における民間営利企業の役割拡大」「医療機関への民間営利企業の参入」を挙げています。
根拠のあいまいな通説を、厳密なデータ分析の結果に基づいて覆すことは,筆者には知的興奮であり、ある種の快感でした。この体験をより多くの人と共有したいという執筆の動機に、一人でも多くの読者が共感してくれることを願っています。
1つ目の提言では、福祉関連予算の増大を問題にする際に、高齢社会によるものとする「小物格の犯人」捜しではいけない。介護費用においても、安易な将来予測を基に政策立案することには問題がありそうです。黒幕は医療技術の進歩?
2つ目の提言では、『理念』について語られています。
社会全体の視点で厚生(幸福度)の向上を考える。経済学イコールお金儲けではない。経済学は経営学ではないという視点。
3つ目の提言は日本のすべての政策にいえます。「外部の第三者評価に必要な情報・データの公開が遅れており」というよりも、有効なデータそのものがありません。データがあっても農業における「食料自給率」というような歪められた詭弁であったり、大本営のようなバイアスがかかっている場合が多く、ジャンクとしか言いようのないものをしばしば見かけます。
「政策評価を含めたチェックアンドバランス機構を、できる限り多く日本の制度改革のためのインフラ(社会基盤)として整備すること」に、本年度も十分な予算はつけられていません。
アベノミクスにおける「改革の方向・進捗状況すら判断できないままブレーキ・安全装置を外せば、とりあえず速度だけは上がることに嬉々とする類の大胆な改革が繰り返されるおそれがあります。」という、慎重な態度は必要でしょう。
4つ目の提言では、日本で提言されている改革案の多くが、その意図とは逆に、さらなる医療費高騰と効率の低下を招く可能性が高いことを指摘している。改革は「マーケットデザイン」を取り入れた、現行改革案の見直しの必要がありそうなことが分かります。根拠のあいまいな通説での「福祉斬りツバメ返し」には、厳密なデータ分析の結果に基づいての経済学と社会科学の「二刀流」が有効であるのでしょう。
「社会を変える新しい経済学――マーケットデザインの挑戦」に戻って、
マーケットデザインとは何か?
25p
マーケットデザインは経済学の一分野で「現実の市場や制度を修正・設計していく新しい分野」だと思ってください。アメリカではマーケットデザインの専門家を名乗る学者もいますが、彼らの中でも明確な定義というものはないようです。だいたいこういうイメージを持っているのではないか、という程度の理解で構いません。
マーケットデザインには、今までの経済学分野にはない大きな特徴が二つあります。
第一に、単純に机上の空論をとなえるだけではなく、実験やシミュレーションを通じて、新しく実行する制度の性能を事前にチェックすること。つまり、非常に工学的な側面を持っているのです。
もう一つは、経済学者が考えた理論的な制度が、ほとんどそのままの形で現実に応用されるという点です。単なる分析で終わらずに、実践的な側面が強いわけですね。
この二つが非常に大きい特徴だと思います。
37p
・・・マーケットデザインとは「経済学、特にゲーム理論やメカニズムデザイン理論などで得られた最新の知見を活かして、現実の経済制度の修正や設計を行う新しい研究分野」と表現することができるでしょう。
38p
・・・伝統的な経済学とマーケットデザインとの違い・・・
おおざっぱに両者を比べると、最初に気が付くのが制度に対する捉え方の違いです。伝統的な経済学では、制度、特に市場メカニズムのようなものは、ほとんど常に“与えられたもの”として捉えます。一方マーケットデザインは、制度を自分たちで“一から設計できるもの”と考える。だから、あらかじめ特定の市場メカニズムや企業内のメカニズムを仮定して、それにのっとって考える必要はないわけです。ここが制度という概念に対する考え方の、一番大きな違いです。
次に分析対象が違います。伝統的な経済学が主に分析していたのは市場メカニズムです。専門的にいうと「完全競争市場」と呼ばれる理想的な市場ですね。この一世紀ぐらい、伝統的な経済学は完全競争市場の分析と理解に最も力を入れてきたといってよいでしょう。一方のマーケットデザインは、理想的な市場から離れたさまざまな市場、あるいは市場とは全然関係ないような制度一般を分析しようとします。ここも大きく異なります。
59p
ゲーム理論は、社会的な分析対象、環境を定式化するところから入る。それに対して、メカニズムデザインでは、まず、【ステップ1】望ましい結果、達成したいゴールを定式化することからスタートします。
60p〜
《メカニズムデザインの手順》
【ステップ1】社会において達成したい目標を設定する
【ステップ2】1の目標が理論的に達成可能かを判定する
【ステップ3】(2で達成可能な場合に)具体的なメカニズムを設計する
この三つのステップの中で、マーケットデザインとの関連で特に重要なのは【ステップ3】、具体的にどういった実践的な仕組みが作れるかです。しかし、伝統的にメカニズムデザインと呼ばれる学問分野は、【ステップ1】望ましさの定式化と、【ステップ2】理論的に達成可能かどうか、ということをもっぱら研究してきました。もちろん例外はありますが、これまで研究者が提示してきたメカニズムというのは多くの場合、複雑で現実的ではありませんでした。
では、マーケットデザインから得られた成果は?明らかにしてきたものは。
40p
対するマーケットデザイン、あるいはゲーム理論から得られた重要な成果は、現実の市場は必ずしも完全競争市場ではなく、さまざまな市場の失敗があることを明らかにした点でしょう。後述する「囚人のジレンマ」のように、市場から離れた単純な例を考えるだけで、すぐに非効率な結果が生まれることがわかります。市場や各経済主体の自由に任せていればすべてうまくいくかというと、そんなことは決してない、というわけですね。ここが含意(インプリケーション)の上での大きな違いです。
41p
・・・ゲーム理論やマーケットデザインが明らかにしてきたのは、市場を機能させるためには制度をいかに上手く設計するか、調整するかが重要である、という点です。もしも市場がうまく機能しない場合には、市場に代わるような制度を作ることも視野に入れます。完全に自由放任(レッセフエール)でいけばいいというわけではない。それがマーケットデザインの導き出した重要な含意です。
「マーケットデザインは、実践的な応用を通じてかなり工学的なアプローチへと移行している。」それでは、ゲーム理論はアメリカではどんな存在なのだろう?
ゲーム理論の思考法 嶋津祐一編 日本実業出版社 1997年2月15日初版発行
15p〜
その難解さにも関わらず、今日におけるゲーム理論の社会的・字問的影響力は大きい。現代の哲学、倫理学、社会学、政治学、経済学など、およそ意志決定の問題を扱う学術分野においてはゲーム理論の大きな影響がみられる。社会的にも、たとえば、選挙における投票行動、公平な納税の負担、消費者行動、あるいは市場の寡占などの社会現象も、ゲーム理論によってその構造を明らかにすることができるのである。
・・・ビジネスエリートの登竜門ともいえるハーバードビシネススクールには「経営経済学」と呼ばれる、日本では聞き慣れない講座がある。そこでの研究対象は、人間や組織の意志決定であり、その重要な基本理論となるのがゲーム理論なのである。同講座では、その名のとおり経営戦略における意志決定の根拠を、ゲーム理論を下敷きにして明確に示せるように、学生たちを鍛え上げている。
こうしてアメリカでは、およそ社会に影響力をもつ組織になれば、それが行政であれ、民間であれ、スタッフの中にはゲーム理論の専門家がかならずいるといわれるまでになっている。アメリカのエリートたちが戦略を考えるとき、ゲーム理論は必要不可欠なのである。
この「改革する社会工学」で、公共経済学に挑戦してみたが、その数式の圧倒的な量を見ただけで眩暈がした。とりあえず「日本の難題をかたづけよう」の1章は、私はよく完結に纏めているなと思いましたが、本章を読んで難解だと思ったら入門書は沢山にあるので心配は要らない。私は通勤大学文庫MBA10「ゲーム理論」で2003年からぼちぼちと学んでいます。
-
映画 ジャンゴ2013.03.26 Tuesday
-
JUGEMテーマ:政治全般〜国会・内閣・行政
映画 ジャンゴ 繋がれざる者 を観る
アメリカから〈自由〉が消える 堤未果著 扶桑社
略奪者のロジック 響堂雪乃著 三五館
日本をどうする?国民が学ばなければ、政治は動かない。 53
クエンティン・タランティーノの遣りたい放題の映画は、抜群に面白かったが、複雑な感情も残った。映画批評の「死ぬほど痛烈で悪魔的におかしい」はその通りです。
映画.comの解説
クエンティン・タランティーノが監督・脚本を手がけるウェスタン。南北戦争直前の1858年、アメリカ南部。黒人奴隷として売りに出されたジャンゴは、元歯科医の賞金稼ぎでキング・シュルツと名乗るドイツ人に買われる。差別主義を嫌うシュルツはジャンゴに自由を与え、賞金稼ぎとしての生き方を教える。ジャンゴには生き別れになったブルームヒルダという妻がおり、2人は賞金を稼ぎながら彼女の行方を追うが、やがて残忍な領主として名高いカルビン・キャンディのもとにブルームヒルダがいるということがわかり……。タランティーノと初タッグとなるレオナルド・ディカプリオが、極悪人キャンディを演じる。主人公ジャンゴにジェイミー・フォックス、ジャンゴと行動をともにするシュルツは「イングロリアス・バスターズ」のクリストフ・ワルツ。第85回アカデミー賞で作品賞ほか5部門にノミネートされ、助演男優賞(クリストフ・ワルツ)と脚本賞を受賞した。
映画.comの特集
「ジャンゴ」は、“これまでのタランティーノ映画”と何が違うのか?
“タランティーノ映画”といえば、個性的な面々が登場し、トリッキーなセリフ回しとバイオレンスを繰り広げ、さらにはセンスあふれる選曲のサウンドトラックが注目を浴びるクライム・アクションを思い浮かべるユーザーが多いことだろう。もちろん、それは間違いではない。だが、奇をてらった描写だけがウリなら、映画監督として約20年も第一線で活躍できるはずはない。前作「イングロリアス・バスターズ」でナチスを叩きつぶしたように、タランティーノの中で近年頭をもたげてきたのが“社会派テーマ”。一見、単なるアクション映画に見せつつも、タブーともされる重いテーマを作品全体で浮かび上がらせる手腕はさらに磨き上げられ、今作「ジャンゴ 繋がれざる者」では、アメリカがこれまで目を背けてきた「奴隷制度」──スピルバーグが「リンカーン」で描くあの奴隷制だ──を白日の下に晒す。奴隷出身の黒人と元歯医者の賞金稼ぎコンビの異色アクションという見た目ながら、根底には大いなる野心があふれる。エンターテインメント心はそのままに、骨太な映像作家に成長したタランティーノ、入魂の一作なのだ。
この映画を観ていて、ふと「アメリカから〈自由〉が消える」堤未果著を思い出した。
シュルツは何故ドイツ系移民だったのか?
191p〜
そしてマリー(サンフランシスコ・ベイ・ビュー 地方紙の発行人)はこう続けた。
「私たちは再び歴史を振り返るべき時に来ていると思います。建国者が三権分立を設けたことの意味を、もう一度考えるのです。
彼らは国家が権力を持ちすぎることの恐ろしさをちゃんと知っていました。
政府の仕事は本来、主権者である国民のために、憲法の理念に洽って国を運営することだったはずです。
真の愛国心とは、外の敵におびえて政府にすべてをあずけ、自らの自由を放棄することではなく、政府に憲法の理念を守らせることなのです」
そう言ってマローは私に、ナチス政権下である牧師が書いたという一編の詩をくれた。
ナチスが共産主義者を弾圧した時、
私は不安に駆られたが、
自分は共産主義者ではなかったので、
何の行動も起こさなかった。
その次、ナチスは社会主義者を弾圧した。
私はさらに不安を感じたが、
自分は社会主義者ではないので、
何の抗議もしなかった。
それからナチスは学生、新聞、ユダヤ人と順次弾圧の輪を広げていき、
そのたびに私の不安は増大した。
が、それでも私は行動に出なかった。
ある日、ついにナチスは教会を弾圧してきた。
そして、私は牧師だったので、行動に立ち上がった。
しかし、その時はすべてが遅すぎた。
(マルチン・ニーメラー牧師)
「自らの自由を放棄してはいけない」、ジャンゴをシュルツが自由人に仕立てたことの意味はこういうことだろう。
シュルツが歯医者であったことは、紀元前2500年頃のものと推定される義歯がギーザから発掘されていることによる。ギーザはエジプトのピラミッドで有名な地です。医学は有色人種の古代文明から発祥している。
何故、賞金稼ぎなのか?正義という幻想と監視社会への警告。
174p
「オバマ政権下で『愛国者法』はどう変わりましたか?」
「オバマ大統領はイリノイ州の上院議員時代、この法律に反対を表明していました。
2005年12月、彼が上院で『愛国者法』延長に反対する演説を行ったのを聞いた時、とても感動したのを覚えています。
彼はそこではっきりとこう言ったんです。
『われわれを守ってくれるはずのこの法律は、われわれアメリカ人の自由の権利を脅かすものだ、
「愛国者法」が行政機関に与えるのは国民を守る権利じゃない。犯罪と何の関係もない国民のプライバシーを侵害する権利だ』とね。
ですが彼は大統領に就任すると変わりました。
テロの疑いがあれば政府は令状なしに国民の電話を盗聴してもよいという法案に賛成し、違法に盗聴を行って訴えられていた政府所有の通信会社の免罪を裁判所に求めました。そして盗聴範囲のさらなる拡大を声高に言い始めたのです。
「奴隷を支配する黒人よりも、奴隷商人の黒人が、最も許せない」というような台詞があった、ことをどう考える?
156p〜
「オバマ大統領が戦争をエスカレートさせ巨額の税金を軍事予算に投じる一方で、家計における学費や医療費は高騰しています。加えて実質最低賃金は低下しており、そのギャップが国民をどんどん借金づけにしています。
人々の怒りがふくれあがるほどに、政府は警戒感から監視の眼と警備体制を強めざるをえないでしょう。
163p〜
カリフォルニア州ハンターズ・ポイントで地方紙の編集長を務めるマリー・ルドルフは、今アメリカで起きていることについてこんな風に語る。
「9.11以降、『テロとの戦い』はアメリカという国を180度変えてしまいました。
歴史を見れば世界中どこでも、戦争をする国は国民を協力させるためになんらかのかたちで自由を束縛してきました。ドイツ、イタリア、ロシア、日本…… 数え上げればきりがないほどです。そして今のアメリカでも。
反戦や良心的兵役拒否が戦争の継続に影響しないよう、一元化して個人情報を監視して、不当な捜査や逮捕、拘留を繰り返すことで、人々を委縮させてゆきます。
そしてそれがいつの間にか、戦争というひとつの目的をはるかに超えて、政府が国民の思想そのものを取り締まるようになってゆくのです。
戦争とは、海の向こうで起きている特別な話ではもはやありません」
「国内でも起きていると?」
「ええ、もっと別な、目に見えないかたちでですが」
独裁体制の最大の道具は「戦争」だ。
だとすると、〈戦争VS平和〉という単純な図ではなく、戦争はある特殊な状態のなかでの突出したひとつの現象になる。
戦争に向かって進むのではなく、戦争というものが持っている体質が、社会全体を飲みこんでゆくのだ。
9.11以降のアメリカを見ていると、イラク、アフガニスタン、パキスタンという国外で行われる戦争と、社会のなかで少しずつものが言えなくなってゆくプロセスとが、同時進行で戦争経済を支えているのがわかる。
何故、マカロニ・ウエスタンをイメージしたのか?
ロレッタ・ナポレオーニ(イタリアの経済学者)に次のような言葉がある。
「今日の奴隷ひとりの平均価格は、民主主義が最低レベルにあったと思われる時代に栄えたローマ帝国の価格の10分のI以下である。」
ニューヨークの独立放送局Democracy Now!での、記事によると。
ロレッタ・ナポレオーニが語る「ならず者経済 資本主義の新たな現実」
放送日: 2008/3/31(月)
イタリアの経済学者であり、ジャーナリストでもある、ロレッタ・ナポレオーニは、現在の先進諸国の経済はどれも「ならず者経済」であるといいます。
彼女の言う「ならず者経済」とは、経済が政治より早く動くため、政治が経済をコントロールできなくなっている。 つまり政府による規制ができないため犯罪や不法がまかり通ってしまう経済のことを言っているのです。サブプライム問題で悩む米国経済も「ならず者経済」であると彼女はいいます。このような現象は大恐慌など大変革時によく起こるということです。
またこの様な大変革期には「民主主義」と「奴隷制」が同時に起こることがあり、これも「ならず者経済」の現象であると彼女はいいます。ベルリンの壁破壊以来、旧共産圏諸国が「民主主義」のようになると、自国民を奴隷のように使いだした。女性の失業率がゼロから80%にはねあがった旧共産圏の女性たちには、西洋諸国での売春をせざるを得なくなり、性的奴隷となりました。またアフリカのココア生産を強制される、コートジボワールの子供たちもこの「ならず者経済」の被害者です。(関房江)
・・・・・
略奪者のロジック 響堂雪乃著 三五館 が面白い。
188 208p
ロレッタ・ナポレオーニ(イタリアの経済学者)
わたしたちが消費するほぼ全ての商品に、奴隷労働、海賊行為、偽造、ごまかし、盗み、マネーロンダリングなど、隠されたダークな経歴がある。
インドでは2005年頃からGM(遺伝子組み換え)種子の耐性低下が原因と見られる凶作が勃発した。零細農家の大半が高額な種子と散布薬を購入するため、高負担の借り入れをおこなっていたことから、返済に窮して自殺するという事件がインド全土で多発する。マハラシユトラ州のビダルバ地区では、米作地域において自殺者がほとんど見られないことに対し、綿作地域ではGM種子を導入した2005年から翌年にかけて1300入以上の自殺者が発生し大暴動へ発展した。
190 210p
アントニオ・ネグリ(イタリアの哲学者)
グローバルな舞台で資本主義の発展を保障する主権が集中した空間を帝国という。
自由貿易とは過剰資本と余剰生産物の捌け口として他国市場を侵略し、自国経済の行き詰まりを暴力によって解消するという剥き出しの対外膨張政策だ。TPPの終局的目標は医療、保険市場の制圧にあるのだが、これはオバマ政権が公約とするメディケア(国民皆保険制度)により縮減する民間保険市場を、日本国市場の獲得により補填するという狙いであることは明らかだろう。
・・・・・
社会派というのは、酒を飲みながら話していても、これぐらいのことは普通に話しています。タランティーノぐらいの天才になると、多分もっと深く考えているでしょう。私が若い頃にフランスの記者から質問を受けたときには、もっと凄まじく執拗に論理的で驚いた経験があります。
ジャンゴの余韻と、「アメリカから〈自由〉が消える」のあとがきに書かれてあったことが重なります。
198p
ワシントンDCにあるスミソニアン博物館で最も人気がある展示「自由の代償」。
9.11後に初めてその展示の前に立った時、そこにある星条旗と、取材で出会ったアメリカ市民たちの顔が交互に浮かび、不思議な気持ちになったのを覚えている。
奴隷制廃止や公民権運動、女性参政権やベトナム反戦運動など、アメリカにとって自由の象徴である歴史的な出来事はどれも、政府からの情報や戦争の勝利がきっかけになったのではなく、普通の人々、が自らの手でつかんだ真実を広げ続けた結果、勝ち取ってきたものだからだ。
ダイナマイトで木っ端微塵になったタランティーノが言いたかったのは「愛と自由、それ以外に我々を繋ぐものはない」ということだろう。
-
当事者として、社会を変える2013.03.26 Tuesday
-
JUGEMテーマ:政治全般〜国会・内閣・行政
僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか 荻上チキ著 を読む
幻冬舎新書 2012年11月30日 第1刷発行
日本をどうする?国民が学ばなければ、政治は動かない。 52
私は「医療と介護の問題に取り組む地域リーダーの会」という、市民と議員と専門家で構成される、市民が運営する団体の代表をしています。今は脳梗塞で入院をしてから、何かと体調を崩して会を休会しています。しかし、医療と介護の問題だけでなく、種々雑多な問題を多くの様々な関係者から持ち込まれてきているので、近いうちに復帰を考えています。本気でやれば地元・・のリコールというような内部告発も持ち込まれています。
会を始めたのは、地元の、とある病院に勤務する医師のあまりにも過酷な勤務状況の結果、その病院で3割の入院制限をせざるをえなくなったことに始まります。「姫路の医療が崩壊する」という医療現場からの警告が発せられたのでした。そこに立ちはだかったのは医師会のグレーな巨搭と、依存体質の強い行政職員と、何も知らない議員と首長でした。
ただの一市民が始めるにはあまりにも複雑な問題が絡み合っていました。とにかく現場の話を聞き、ひたすら勉強をして、自分なりのロジックツリーを作り上げるには1年かかりました。200冊の本を読み1000近い論文を読み、会議の合計時間が30時間を超える頃に、ようやく諸問題のツリーが幾つか出来上がりました。その頃に俗にいう『たらい回し』事件が大きく報道されることになりました。地元でも、当然そのような事件が起こりました。市民や議員の目がそちらに向いたときに、一気に会を組織して「姫路救急医療再生会議」を立ち上げました。市も救急検討会を立ち上げました。議員に対しては急性期病院の救急担当医と看護師やコメディカルのダイレクトな意見を元に、第一に救急現場のモチベーションが上がるような政策提案でなければならないことを学んでもらいました。
そして会は誰でも参加できる勉強会を開いて、今起こっている問題点を公にして、皆と話し合って、具体的な政策案を議会へ上げてきました。
ロジックツリーとは以下のようなものです。
・・・・・
[新版]問題解決プロフェショナル「思考と技術」斎藤善則著 ダイヤモンド社
この書はいまや名著というよりも、ビジネスマンのバイブルとして読まれています。
77p〜
<ロジックツリー>とは、問題の原因を深掘りしたり、解決策を具体化するときに、限られた時間の中で広がりと深さを追求するのに役立つ技術である。
文字どおり、「ロジック]とは論理であり、「ツリー]とは葉の生い繁った木という意味だ。主要課題の原因や解決策を<MECE>の考え方に基づいて、ツリー状に論理的に分解・整理する方法である。
単なる根拠のないアイデア出しとは違って、具体的な解決策=「ツリー」の葉が「ロジック」という因果関係で結ばれているから、問題を必ず解決に導くことができる。
箇条書きは<ロジックツリー>の初歩であるが、<ロジックツリー>は次の3つの点で優れている。
○モレやダブリを未然にチェックできる
○原因・解決策を具体的に落とし込める
○各内容の因果関係を明らかにできる
特に世の中にある既存のフレームワークが適用できないときや、独自の問題解決には威力を発揮する。シンプルだが、きわめて汎用的かつ実践的な問題解決の技術だ。
人は問題に直面して解決策を考えようとするとき、まずその原因を追求する。しかし、いろいろな原因が考えられるのに、その広がりや深さを押さえずに、単なる思いつきだけで手を打つとどうなるか。どんなに立派で緻密な解決策を練り上げても、的が外れれば無駄に終わる。そして、間違って実行するとさらに余分な時間と資源(ヒト・モノ・カネ)を使う羽目に陥る。ビジネスの現場では、このタイムラグが致命傷になる。<ロジックツリー>はこのような問題の原因を追求したり、解決策を具体化するプロセスにおいて、的を外さないようにするための技術なのだ。
84p
解決策の要件は次の2つである。
○的を外さないこと
○すぐにアクションに結び付くような具体性があること
・・・<ロジックツリー>を使って解決策を具体化するには、SO HOW?(だからどうする)を何度も何度も繰り返して深めていくことが必要になる(図2−19)。そして、深められた具体策がロジックの糸でつながれている限り、実行すれば必ず問題解決に結び付く。
・・・・・
僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか、を読んでいて感じたことは、著者のミッシーが論理的であることと、ロジックツリーを作る上で、問題から原因にいたるWHY?が的確であることです。
57p([新版]問題解決プロフェショナル)
<MECE>とは、Mutually Exclusive Collectively Exhaustiveの略である。日本語に直訳すると、「それぞれが重複することなく、全体集合としてはモレがない」という意味である。これを、経営コンサルティング会社マッキンゼーでは「ミッシー」と呼んでいる。実はこの<MECE>という概念は、全体として「モレなしかつダブリなし」というきわめて単純な集合に関する概念だが、ビジネスにおいては非常に重要な考え方である。
・・・・・
僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか
85p
・・・何かひとつの制度について議論するにあたっては、その問題を「構造要因」「制度要因」「景気要因」という3つの角度から、丁寧に分析することが不可欠です。
96p
・・・特定の条例や法案について吟味する際には、気をつけておかなくてはならないことがあります。それが、次の3つ。
・その政策はどれほど効果をあげるのか(コストと効果の問題)
・その政策は何か副作用をもたらさないか(副作用の問題)
・その政策は、真に国民益をもたらすものになっているか(効果の影響先の問題)
「議論」の正当性を眺める際、その議論に「根拠(エヴィデンス)」「解決策(ソリューション)」「倫理(エシックス)」があるかを問う必要があります。
そして「政策」の是非を眺める時には、この「コストと効果」「副作用」「国民益の希求」を適正に見極める必要があるのです。
コストと効果の問題、副作用の問題というのはわかりやすいでしょうが、「その政策は、真に国民益を希求するものになっているか」という話で出てくる「国民益」とは、その政策が、「国民の部分的あるいは全体の厚生(利益・満足度)向上」を上げる政策として機能するかを見るということです。
通常、多くの政策は、様々な利害関係者・既得権益者の手によって、その利益構造(=利益のたどり着く先)が歪められています。理念だけは立派だが、結局その政策は「国民益」にかなった政策ではなかったというケースがあまりにも多いのです。
原因追及のロジックツリー(WHY? どうして)をつくり、解決具体化のロジックツリー(SO HOW? だからどうする)をつくっていく。
だからどうする、には立脚点が必要となります。著者の立脚点は正しい。
156p〜
社会のバグを見つけ出す
今は、「僕たちの社会を、いろいろな制約がある中で、なんとかアップデートしなくてはならない」ということが多くの場面で語られていながらも、「その選択肢がなかなか思い浮かばない」というどん詰まりの状態にあります。
でも、これを解決する手っ取り早い方法のヒントがここにあります。それは、「目の前に存在するバグ(問題)を丹念に潰していく」ということです。
そして、このバグを見つける作業に際して、障害を抱えている人に限らず、社会の設計上のミスから、現実に「困っている人」があちこちに存在しているということこそが、この社会のバグの発見に、大きなヒントとなるものなのです。
誰が「くじ」を引いても、問題がないといえる強い社会を作るために、「この社会のどこに、あなたを困らせている要因がありますか」と、たまたま今「くじ」を引いている人に、教えてもらうという方法です。
社会的弱者という言葉もあるけれど、弱者とは「弱い人」のことではなく、「社会のあり方によって、弱らされたままにされてしまっている人」のことだと考えられます。
そう考えれば、次に必要なことは、「そういった人たちが、社会に存在するどの問題によって弱らされているのか」を探る必要があるということです。
そこから翻って、「では、どうすれば社会を強くできるのか」ということに、頭を捻る必要が出てくるということでしょう。
そういう人を生み出してしまっている、社会の制度設計上の「穴」「バグ」を発見し、改善するという活動をし続ける。そのことで、社会全体での不幸の数を減らすことができれば、「今よりもマシ」な社会に近づけることはできる。僕の根本思想には、そういう発想が染み付いています。
「くじ」とは何か?
154p
この社会には、様々な「くじ」が用意されていて、何千分の1であろうと何万分の1であろうと、必ずその「くじ」を引いてしまう人がいます。この「くじ」とはもちろん、先天的なものとは限りません。たとえば明日、誰かが、交通事故にあって半身不随になるかもしれないし、難病にかかってしまうかもしれない。そういった「まさか自分が当事者になるとは思いもよらないような『くじ』」も、一定数の人が必ずそのくじを「引かざるを得ない」ことがわかります。
ボランティアに行ったときには、この「くじ」についてよく考えてみてください。そして、人が排除されない社会とはどんな社会なのか、人が生きるということの意味とは何か、考える学習の場として私はボランティアをとらえています。
152p
「障害は不便だけど、不幸ではない」という有名なフレーズがあります。
この言葉は、「不便であることがあまりに放置されていれば、今度はその不便であるということが、その人の不幸に直結してしまうことはある。でも、障害は、それ自体が決して不幸な存在ではない。数々の不便が放置されている社会そのものが、障害者を不幸に仕立て上げてしまっているだけで、不幸が宿命づけられているわけではない」ということを教えてくれます。
155p
世の中には「困ってる人」と「困ってない人」の2種類の人がいるのではなくて、「困っている人」と「いずれ困るかもしれない人」の2種類がいるにすぎない、と捉えるこができます。
「医療と介護の問題に取り組む地域リーダーの会」は「入院患者と障がい者に笑顔とコンサートを贈る市民の会」をベースにしています。過去100回近いイベントで学んだことは、答えのない問いでも、問い続けるかぎりにおいて意味がある。ということです。改革者はトランプで言うオールマイティなジョーカーです。道化者でもあるのかもしれない。現実の壁は高いが破れない壁はないだろう。
著者は第5章「僕らはどうやって、社会を変えていくのか」でこう言っている。
208p
かつては、ジェネラリスト(総合知識人)とスペシャリスト(専門家)が分業しながら、言論空間を築いているのだといわれていました。でも僕は、現在求められているのは、エバンジェリストとファシリテーターとの連携だと考えています。
エバンジェリストは「伝道者」のことで、特定の専門分野から得た知見を、その場にとどまらずあちこちに委ね渡していく者。ファシリテーターとは分野横断的に、様々な知見を整理・解説していく者のことです。
要は、今までよりも横断的に、そして手を伸ばし合っていこうぜ、ということです。
問題解決の要点は「走りながら解決する」ことです。問題解決力とはエバンジェリストやファシリテーターであっても、総合知を持ち、問題解決のためのスペシャリストでなければなりません。社会を変えるとは、組織戦に勝つことです。
著者のいうところの、複数の「小確効(しょうかつこう)ソリューションズ」(小さくとも確かな効果のあるソリューションたち)を提案していく、そんな組織戦にも注目してみたいと思います。
-
経済成長って何で必要なんだろう?2013.03.24 Sunday
-
JUGEMテーマ:政治全般〜国会・内閣・行政
経済成長って何で必要なんだろう 光文社 を読む
2009年6月30日 初版1刷発行
芹沢一也・荻上チキ 編 飯田泰之 著
岡田靖・赤木智弘・湯浅誠 著
日本をどうする?国民が学ばなければ、政治は動かない。 51
物価上昇2%でこれからの経済はどうなるだろうか?様々な論がある。様々な論があるということは、私達の暮らしは大規模な社会実験の中にある、ということだろう。円高で国債と金融のバブルがあって、今度は円安で株と土地のバブルが起こって、バブルがシフトチェンジしただけで、庶民の暮らしは楽になるのだろうか・・・。
227p
飯田 僕は、デフレとバブルというのはまったく同じ問題だと思っています。土地や株式という単一の財産を、理由はようわからんのだけれど、全員が求めるとバブルになります。同じように、貨幣を全員で求めると、デフレ不況になる。
阪大の小野善康氏は、バブルの絶頂期に、デフレ不況はバブルと同じ理由で生じうることを現代的な数理モデルとして提示しています。いま思うとすごい慧眼です(小野善康『貨幣経済の勤学理論』東京大学出版会)。
バブルとデフレ、この二つの共通点は何か。それは、新しい産業、新しい財のビジョンを提示できず、所得をどう使うべきか、誰もが立ちすくんでしまっている状態です。どう使っていいかわからない所得が、80年代末は土地を買うほうに回った。そして90年代以降は、マネーそのものの保有に向かっている。もっともバブルのほうが、いまのデフレ不況よりはまだマシではあるんですが。
そうか・・・、ましなのか・・・。
かつての、あの懐かしいバブルの頃はよく儲かったが、よく使った。お金は稼ぐものではなく、湧いてくるものだと思っていた。バブルが崩壊して、蟻とキリギリスの話やうさぎと亀の話が身に沁みた。祭りの後の木枯らしが、さみしさを一層に際立たせた。そんなときに中野孝次著の「清貧の思想」を読むと、カッコ好かった。徒然草とか読み直したり、芭蕉の潔さにも深い感動を覚えた。
「清貧の思想」中野孝次著(草思社)1992年9月16日初版。
1993年3月12日で39刷だから、当時のブームだった。「武士道」もその頃に読んだ。凛として生きる。
・・・・・
109p
されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危く他の財を貪るには、志満つ事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし。(第九十三段)
自分が生きて今存在しているという、これに勝る喜びがあろうか。死を憎むなら、その喜びをこそ日々確認し、生をたのしむべきである。なのに愚かなる人びとはこの人間の最高のたのしみをたのしまず、この宝を忘れて、財産だの名声だのというはかない宝ばかりを求めつづけているから、心が満ち足りるということがないのだ。生きているあいだに生をたのしまないでいて、いざ死に際して死を恐れるのは道理にも合わぬことではないか。人がみなこのように本当に生きてある今をたのしまないのは、死を恐れないからである。いや、死を恐れないのではない、死の近いことを忘れているからに外ならない。
・・・・・
「財産だの名声だのというはかない宝ばかりを求めつづけているから、心が満ち足りるということがない」まさに、その通りですよね。「存命の喜び、日々に楽し」
・・・・・
110p〜
つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるゝ方なく、たゞひとりあるのみこそよけれ。
世に従へば、心、外の塵に奪はれて惑い易く、人に交れば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら、心にあらず。人と戯れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事なし。分別みだりに起りて、得失止む時なし。惑いの上に酔へり。酔の中に夢をなす。走りて急がはしく、ほれて忘れたる事、入皆かくの如し。
未だ、まことの道を知らずとも、縁を離れて身を閑かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。「生活・人事・伎能・学問等の諸縁を止めよ」とこそ、摩訶止観にも侍れ。(第七十五段)
スケジュール表に予定をびっしり書きこんで、絶えず忙しく動き回っていないと生きた気がしないような人の気が知れない。わたしに言わせれば、人間は他のことに心を紛らわされず、己れひとり居て心を見つめているのがいいのだ。
世間並に暮そうとすれば、心は儲けごととか商談とか出世とか色ごととか、そんな外の塵に自分も心を奪われて惑いやすいし、人との交際を重視すれば、テレビだの新聞だの意見や情報に引き回され、まるで自分が自分でなくなってしまう。たのしく付合っていたかと思えばすぐ喧嘩をし、恨んだり悦んだりして切りがなく、心の平安なぞ望むべくもない。ああすればとか、こうすればと考えて利害の関心から抜け出せない。まるで惑いの上に酔い、酔いの中で夢を見ているようなものだ。だが、世間を忙わしく走り回っている人を見ると、事に呆けて肝腎なことを忘れている点では人みな同じである。
だから、また真の道は何かを知らずとも、仕事、人間関係、世間体などの諸縁を断ち切って心を安らかにしておくのこそ、生を楽しむ態度だと言うべきである。摩訶止観にも、生活、人事、技能、学問等の諸縁をやめよ、とあるではないか。
兼好はこのように、世間のままに動いていては心の充実は得られない、世間並の生から距離をとって己れの心をしかと見つめよ、それこそ存命の喜びを楽しむことだ、と言うのである。『徒然草』全巻について、この態度がいねばライトモチーフとして鳴っている。
・・・・・
バブルの頃は「自分が自分でなくなって」いたようにも思えます。野山を散策し、風雅を楽しむことが私の趣味になりました。
それはそれとして、趣味は趣味として、経済成長を否定するものであっては、若い私の息子達には迷惑がかかるようだ。
「経済成長って何で必要なんだろう」
235p
・・・景気が悪くなってくると、新しい会社、小さい会社からつぶれていくんです。要するにベンチャーからつぶれていく。
一方、老舗というのは、何だかんだ財産をもっているので、どんなに売り上げが落ちてもすぐにはつぶれない。実際よくあるパターンとしては、景気がグッと落ち込むと、その間に老舗は手元のキャッシュや財産を使って耐える。
その一方、景気がふっとよくなると、少なからぬ老舗がつぶれるというのもよくあるパターンです。景気がよくなって人件費が高騰して、優秀な人材を会社に抱え込み続けることができなくなる。つまり給料を上げられない。その結果、重要な人材がどんどん外に出てしまう。高い給料をくれる新興の会社に移ってしまう。その結果、人手不足によって老舗がつぶれるというのが、景気がいいときの産業転換パターンなんです。
さっきバブルとデフレ不況は表裏一体だとお話ししましたが、新産業や新しい財が足りない状態を、需要飽和といいます。単純化すると、お金を払ってでもほしいと思うものがないから、景気が悪いという話です。新しい商品、新しい産業、新しい財が出てこないと、いずれ「お金を払ってでもほしい」ものが尽きてしまう。これを防ぐためには、新産業が必要です。その新しい産業が出てくるためには、どうしたらいいかというと、トートロジカルではありますが、僕は景気が過剰に噴くのがベストだと思うんです。
例えば、僕が炭鉱労働者だったとします。好況で求人が大量に出ているなら、ためしに工場で働いてみようかなと、移ることができる。だめだったらまた炭鉱労働者をやればいいや、と。新産業が需要創出をして、それによって経済が正常な姿に戻っていく。僕の師匠でもある経済財政諮問会議の吉川洋先生の主張が、需要創出型のイノベーションの必要性です。
ただし、僕は吉川先生の現状分析はもっともだと思う反面、需要飽和の解決のために新しい産業を政府が探すのは難しいので、具体的な政策論としては不十分だと考えています。三輪芳朗先生やデヴィット・ワインシュタインらの研究群が明らかにしたように、それは現実には無理でしょう。それぞれ勝手に自分がいいと思うことをやり、その中で偶然成功するやつが出てくればいい。その偶然の成功を呼び起こすための条件として、人為的であれ過剰であれ、とにかく景気がいい必要があるというのが、僕の処方策です。
こういう新自由主義の考えは危険なのではないだろうか?
216p
・・・一般には「ケインズからハイエクヘ」、すなわちケインズ的な福祉国家主義、あるいは大きな政府というビジョンから、ハイエク的な新自由主義、あるいは小さな政府へと移り変わったとされ、両者は根本から対立するものであるとみなされがちです。
飯田 たしかにそういう見方は根強いですね。しかし、両者のあいだには論理的な対立点はないと、少なくとも僕は、考えています。
新古典派、なかでもフリードマンらは、「健康な人間は、体を鍛えるともっと健康になれる」といっている。一方のケインズは、「病気の人間には治療が必要である」といっている。つまり両者は排他的な主張ではない……というか、そもそもいっていることが披っていない。重要なのは、いま現在が健康なのか病気なのかという判断であり、それによって、どちらの方法が「いまは」有効なのかが変わるということです。
荻上 両者を方法論としてとらえたうえで、状況設定によってその使い勝手が変わるだけだ、と。
飯田 そう。状況に応じての処方箋が違うだけで、つねにフリードマンやハイエクが正しいとか、いつでもケインジアン・スタイルがすばらしいという問題ではない。
芹沢 新古典派は「健康なら、筋トレしなさい」といっている。ケインジアンは「風邪を引いたら、風邪薬を飲みなさい」といっている。両者は相補的であって、要するに「健康になって、つぎに筋トレを始めよう」ということですね。
飯田 そうです。経済学の二大潮流をミックスすると「風邪引いたら、お薬を飲んでください」「治ったら、体を鍛えましょうね」というものになります。これは50年代から60年 代にかけての新古典派総合、現在の新新古典派総合の思考法です。経済政策は、そのように臨機応変にスイッチしていかなきゃいけない。僕は、97年以降景況が悪いから「お薬経済学」を主張していますが、労働力不足状態になったら、「筋トレ経済学」に変わると思います。
私は日銀新総裁黒田氏の物価目標2%が、多くの臨床データをもとにしたエビデンス(標準治療)に沿った治療だと思えるようになってきました。他の論が中国の奥地で秘薬を見つけたという話や、こんな健康補助食品が良いとか、心理学的な副次的効果だとか、おまじないのようなものに思えてきています。
経済学とは理工系の学問だと考えたほうがよさそうです。「経済学者の仕事」とは!
239p
飯田 理想的には、経済学者の仕事は「こういう社会にしたい」というオーダーを受けとり、そのオーダーが「可能かどうかを検証」し、さらには「効率的な目標達成手法を示す」ことです。
例えば、税率を下げながら税収を増やしてくださいというオーダーには、「無理」と答えるでしょう。農業への保護を強めながら、その生産性を高めてくれというオーダーに対する答えも「無理」です。可能な要求なら、それを受けてシステムをデザインする。僕の考える理想論では、それを法律家にわたすと、法律家が実行可能な契約書としてコード化し、そして実行に移されるというルート。
ちなみに、賃下げを進めながら労働供給を増やす……つまりみんながもっと働くようにするにはどうすればいいかと問われたら、「税率を上げろ」と答えることになるでしょう。ここで注意してほしいのは、問いに答える経済学者は、別に減税や農業保護が憎いわけでも、税率を上げてみんなを貧乏にする「べきだ」と主張しているわけでもないんです。あくまで、目標達成の可否と方法を返答しているだけです。
黒田日銀新総裁は経済学を良く知る人であるがゆえに、政権党のオーダーに応えようとしている。日銀の独立性を理想論で語らない姿勢がプロフェショナルなのだろう。
この書の若き論客達は頼もしい。この書は読みやすいし面白い。ページ数を200ページほどに落として新書で編集しなおしたら、物凄く売れるに違いない。
-
放射線防護知識2013.03.21 Thursday
-
JUGEMテーマ:政治全般〜国会・内閣・行政
お母さんのための放射線防護知識 高田純著
医療科学社 2007年 第1版第1刷
日本をどうする?国民が学ばなければ、政治は動かない。 50
Yahoo!でニュースを見ていると、以下のような注目すべき記事が出ていた。
被災地支援の米兵による東電提訴、原告26人に増加
CNN.co.jp 3月20日(水)9時0分配信
(CNN) 東日本大震災の被災地支援活動に参加した米兵が、東京電力福島第一原子力発電所の事故について虚偽の説明を受けたために被ばくしたとして東電に損害賠償を求めている裁判で、原告が当初の8人から26人となり、今後さらに増える見通しであることが分かった。
米軍の準機関紙「スターズ・アンド・ストライプス」が先週伝えたところによると、現時点で100人が原告団に加わる準備を進めている。請求額は総額20億ドル(約1850億円)に達した。
東電は声明で新たな原告が加わったことを確認したものの、詳細には言及せず、「米国の法手続きに従って適切に対処したい」と述べた。
米兵らは原子力空母「ロナルド・レーガン」などの乗組員だった。被ばくの影響で頭痛や集中力の低下、直腸出血、甲状腺の異常、がん、婦人科疾患などの症状が起きていると主張。昨年12月、米カリフォルニア州の連邦地裁に8人が提訴し、東電に1人当たり4000万ドルの補償と懲罰的損害賠償を求めていた。また、検診や治療の費用として1億ドルの支払いを要求したが、弁護団は今回、これを10億ドルに引き上げた。
訴状は、東電が当時、放射能漏れの事実を知りながら原告らに警告せず、実際の放射線量を知らせなかったと主張。また、日本政府も「すべて大丈夫だ、信用してほしい」「ただちに健康への危険はない」と言い続けたが、それはうそだったと非難している。・・・・・
この裁判は日本のようには長引かない。日本国内でも歴史に残る超巨大裁判になるだろうことが予想されるが、米国でどのような額が提示されるのかが、日本国内の裁判にも影響されることになる。日本でもアメリカの裁判の動向を見ながらの、同様の裁判も起こされていくだろう。多分、小さな国なら買えるほどの金額になるに違いない。この超巨額賠償の金額次第で、その後のエネルギー政策の行方が決まるだろう。
先週にNHKで「ロボット革命」というドキュメンタリー番組があった。原発事故処理のために開発が急がれていたり、これをビジネスチャンスとした世界各国のロボット開発競争が激化している様子を切り取った内容だった。アシモ君が健気に頑張っている。日本はWBCで負けたが、ロボットでは負けないでほしい。頑張れ!アシモ。
私達の住む今、世界は大きな歴史の転換点にいる。コンピューター革命・3Dプリンターによるものづくり革命・ロボット革命・生命工学革命・新エネルギー革命のパラダイムチェンジの時代に生きている。私達は人類史の大きなエポックメーキングの証人として、次世代に責任のある選択をしていかなければならない。ロボット革命においても倫理が求められる。言い換えれば「人間の学としての倫理学」再考の時代と言えるかも知れない。
この「ロボット革命」の番組を見ていて、ふと「お母さんのための放射線防護知識」に書かれてあった「フランスにおける原子力防災の先進性」の章を思い出した。
この書の著者は放射線防護学者で核災害を専門的に調査してきた方です。「核爆発災害」(中公新書)ではこう自己紹介している。
「筆者は、ソ連崩壊後の1990年代後半に実験場周辺の核の灰被害の調査を行ない、それまでの日本の科学者が核爆発災害を科学的に認識できていないことに気づいた。広島・長崎における空中核爆発の事例だけからでは推察できない現象が見つかっている。災害の科学は、災害の認識のみならず、必然的に防災、防護、減災に取り組むことになる。こうした意義と背景のもと、筆者は、2001年9月11日の米国中枢を狙った国際テロ事件以後、この種の研究に取り組んでいる。」この書は抜群に面白いので後日に紹介したい。
お母さんのための放射線防護知識は「放射線防護学研究は、研究のための研究ではなく、生活している被災者や、その他の将来のために役立たないといけないと、強く心に刻み込んだ」著者がその考えを実践した書です。
56p〜
リモコンロボット部隊の実力
合理的なフランスの実力を見せつけられたのは、事故処理の対応ができるリモコンロボット部隊の存在でした。グループ・アントラは、フランス電力庁(EDF)、原子力庁(CEA)、核燃料公社(COGEMA)の共同出資で、1988年に設立され、ロボットの開発、運転員の養成・育成、想定事故の訓練を任務としています。遠隔操作ロボットの実行部隊が、フランス全土の核事故対処のために、形成されているのです。アントラ社は、地理的にフランスの中心に近く、24時間以内にどの地でも、介入チーム(10人)と設備を、輸送できます。最も遠い核エネルギー施設でも、陸路で12時間程度で派遣できます。
遠隔操作ロボットは、屋内対応および屋外の土木工事対応など、想定される緊急事態に備えています。屋内対応では、発電施設の運転室内の操作盤を、人の代わりに操作したり、配管の脱着などの工事作業を、遠隔操作によりロボットが実行するのです。フランス全土に、60人のロボット運転員がいて、各施設の専属です。それぞれの施設で想定される事故に対処できるように、訓練を積んでいるのです。1999年の東海付臨界事故の事列研究もすでになされており、実践対処できるというのには、驚かされました。
遠隔操作員の乗る指示車両、現場指揮官用の指揮車両、除染車両、トラクター、トラック、ショベルカーなどの大型ロボット、そして、アンテナ車両により、屋外の緊急作業に対処するように、システムが構成されています。指揮車両のコンピュータには、各核施設のデータをはじめとした必要な情報が入力されています。
ロボットはこの頃からみると、革命的な進化に隔世の感がある。フランス以上の取り組みが可能です。政府は巨額の資金を投入して、世界の核災害に輸出できる技術に育ててほしい。
フランスでは安定ヨウ素剤の事前配布や民間開放されている軍病院も充実しているらしい。
54p安定ヨウ素剤の事前配布
フランス南部に位置するトリカスタン原子力発電所を訪れ、勤務医のキャサリン・バイロウルさんからヨウ素剤の話を聴きました。フランスでは、国がヨウ素剤とそれを説明する小冊子を作成し、立地県が15キロメートル圏内の全住民へ配布しています。日本のような40歳未満という年齢制限はありません。ペットでもヨウ素剤をもらえます。券が配られた住民は、各自が薬局で、ヨウ素剤を受け取ります。その後、5年ごとに、古いものと交換します。15キロメートルを越える遠方の住民で希望する人たちは、薬局で購入ができます。一方、日本では、こうした購入も簡単にはできません。
55p
大規模核災害緊急時にフランスでは、住民たちがまずヨウ素剤を飲んで、避難します。 その成功の鍵は、こうした平時の住民、主治医、行政〜発電所の連携にあると思われます。 フランスのこのヨウ素剤の配布制度は、1997年に始まり、全体として系統づけられ、公衆にわかりやすいものとなっていると感じられました。
日本の現状は、立地県がヨウ素剤を備蓄はしていますが、配布の仕方や服用にあたり不安があります。フランスのような地元の医師たちの協力が求められるのではないでしょうか。
58p〜民間開放されているフランス軍病院の充実
放射性物質で汚染を伴う負傷者は、そのままでは病院に収容できません。院内の汚染を防止するために、あらかじめ除染をしなくてはならないからです。あるいは、汚染が広がらないように患者をシートで包んで収容し、院内で除染しなくてはなりません。ですから、一度に複数の核汚染を伴う負傷者の収容は困難になります。
民間に開放されているフランス軍の病院には、同一敷地内に放射線防護部門があります。 その注目施設に放射性物質による汚染患者の除染治療センター(CTBRC)があります。私はパリの郊外にあるパーシー病院を訪問しました。フランス国内のどこで放射性物質の汚染を伴なう事故が発生しても、350キロメートル(3〜4時間)以内にこの種の施設があります。この国内ネットワークの確立が、フランスの核放射線利用における被曝医療の強みのひとつと感じました。
汚染した、ないし、その恐れのある患者は、直接、緊急治療室へ搬送されません。そうした患者は、除染施設であるCTBRCが受け入れるのです。蘇生や緊急施術を行うことのできる除染施設という特徴があります。特定の除染剤による皮膚および体内の除染、必要に応じて、外科的手段による汚染創傷の除染も行われます。この場合、汚染の状態も測定されます。
この施設は、この目的に沿った特別の平屋構造を有しています。患者の流れは、完全に一方通行で、逆戻りはありません。最上流の入口の脱衣室兼トリアージ室から、川下に向かい、各室に分離された形で、汚染管理部、除染部、手術室、集中治療室、更衣室などの順に配置されて、清浄な状態になって、患者は、隣接されている病院に搬送されます。
日本の自衛隊病院も1993年から民間開放が進められています。こうした安全を支える医療施設の整備こそ、国民保護のために、日本に求められています。
日本では何故にこのような住民主体の危機管理ができなかったのでしょう?
日本では原発再稼動の動きも活発になってきていますが、核のゴミの問題もあり、施設周辺では特に念入りな取り組みが必要とされるのでしょう。
この書の提案は非常に重要なもので、施設周辺住民はしっかりと勉強しておきましょう。少なくとも子どもを持つお母さん方には著者と教育研究者と産科・小児科の医師と組んでの、フランスのようなテキストづくりと教育プログラムが必要だと思われます。皆さんも本書を読んでどのような取り組みが必要か、を考えてみてください。
本書にはこのような決めの細かい提案もあります。
51p 昆布がヨウ素剤の代用
原子力発電所がミサイルなどで攻撃されるなどの想定外の重大事故の場合には、他県へも放射線災害が及ぶことになります。しかし、立地県以外ではヨウ素剤は備蓄されていません。
日本の場合、こうした事態でも対応可能です。それはヨウ素剤の代わりになる食品が普通の家庭にあるからです。それは昆布などの海草類です。
特に昆布には、ヨウ素が豊富に食まれています。そこで、ヨウ素を多く含む昆布を食べることを勧めます。昆布を普段食べて、アレルギー反応を示さないならば大丈夫です。 もし、あなたがヨウ素過敏症であっても、適量の昆布でアレルギー反応を示さないかもしれません。
だし昆布(乾燥昆布)33グラムにつき、約100ミリグラムの安定ヨウ素が食まれています。ですから、事故直後から、数日間、日に1度、乾燥昆布を、中学生以上から成人は33グラム、3歳以上から小学生までの子どもは16グラムを食べればよいのです。
食べ方としては、最初にだし汁をつくります。家族の・・・・
と続いていきます。
「ミサイルなどで攻撃されるなどの想定外」が核兵器の小型化で現実味を帯びてきているような気がします。ミサイル攻撃や隕石落下も想定外ではないと思えます。
放射線防護テキストを作るにあったて気になることもあります。著者がWHOの基準に疑問を持っていることです。
35p
WHOでは、この100ミリシーベルト以下の線量に対しても、発がん数を計算し、推定数に加えています。汚染地(チェルノブイリ)の住民の平均線量は7ミリシーベルトであり、この低線量から5000人が、がん死すると計算しました。この低線量被災者に対する推定は、はなはだ疑問があります。2002年までのがん死亡数15人とも矛盾しています。
リスクを過大評価し公衆に説明するのは、緊急時にはプラスに作用します。しかし、事故後20年も経過した復興期には、不安を住民に与えるだけです。こうしたマイナス面を、国際機関であるWHOの専門家たちは理解すべきです。 皆さんは、どう思われますか。
皆さんは、どう思われますか?アメリカでの裁判でどのような健康被害が認められるかにも注目ですね。
-
増税時代2013.03.20 Wednesday
-
JUGEMテーマ:政治全般〜国会・内閣・行政
増税時代――われわれは、どう向き合うべきか 石宏光著 を読む
ちくま新書 2012年12月10日 第1刷発行
日本をどうする?国民が学ばなければ、政治は動かない。 49
なぜ増税が必要なのか?国の借金が大きいのはなぜ悪いのか?それは、グローバル市場の判定が国家の未来を支配しているからです。つまり、市場の権力が国家の権力を統治するようになったからです。実は、嘗て中川秀直が「ステルス複合体」といっていた、学歴の優越意識に基づくエリートの人脈が、市場の暴力に最も危機感を持っている。財務省、銀行、財界があまりにも大きくなりすぎた市場の権力に怯えている。そこに、強いリーダーが必要だという、複合体の悲願がある。増税が必要だという論者は一応に危機感が強い。この危機感は国を思う強い気持ちの表れなので、国民を犠牲にした財界よりの考えだと、一概に斬って捨てるわけにはいかない。増税論者も減税論者も国家を憂える国士であるとの認識で、国民は真面目に耳を傾けて、自分で判断する必要がある。本書は増税を必要とする論の代表格です。少し予習をしてしっかりと読んでみよう。
195p
今般の消費税増税の議論には、過去2回の時と異なり市場との対応が重要な課題となってきた。膨大な財政赤字累増と絡み、グローバル化された世界での日本国債の信頼度およびソブリン・リスクの問題がクローズアップされ、市場の出方が懸念材料となっているかだ。
ソブリン・リスクとは国が発行している政府債務のリスクのことです。日本国債の信頼度が以前とは違う。世界各国の財政危機に市場が敏感になっている現状で、市場の目も日本に厳しくなっている。
196p〜
・・・ここ数年、日本国債の格付けの引き下げが生じ市場における長期金利の動向が絶えず心配されている。これまで欧州債務危機の影響もあり、日本国債は先進国最悪の財政状況ながら、市場でより安定的ということで買われ、低金利水準が持続してきた。しかしながら日本国債を購入しているマネーは、単に一時的に滞留しているだけのいわば「パーク・マネー」でいつでも移動する性格のものである。欧米の財政危機が安定したと見放されれば、日本から逃避し容易に海外へ回帰するであろう。
なぜ、これほど市場は敏感に反応するのであろうか。それは長期金利上昇、国債価格の値崩れ、そして金融機関の巨額な含み損発生という状況が見込まれるからである。日銀の試算によれば、金利が1%上昇し国債価格が低下すれば、大手銀行だけで3.4兆円の含み損が発生するという。現在、長期金利が1.09%を上回るだけで、大手銀行の保有国債に含み損が生じるとされている。
この1.09%という銀行の損益分岐点に市場の動向が追ってくれば、損失を避けるために売りが売りを呼びかねない。国債の9割以上が国内投資家によって保有されているという事実は、何の役にも立たないと知るべきである。このことは、過去の例からも当然に起こりうると考えておく必要があろう。たとえば、長期金利が過去最低の0.430%を記録した2003年には、その後わずか3ヵ月で1.20%に反転し上昇しているのだ。このような事態になれば、銀行の損益分岐点などあっという問に超え、大手銀行は膨大な含み損をかかえ貸し渋りが横行し、不況が一挙に深刻化するだろう。
日本は財政再建を実行すると、政治が世界に強い意思を示しておかなければ、日本経済に重大な支障をきたすことになるという警告です。財政再建は成長を阻害するということについての反論を聞いておかなければならない。
126p〜
財政再建がマクロ経済に悪影響をあたえ成長率を鈍化させるかに関しては検討の余地がある。つまり短期的には緊縮財政により総需要を抑制し、景気を後退させる効果があると議論されることが多いが、中長期的には財政再建の努力自体が市場から評価されまたいわゆる反ケインズ効果により、あるいは一国の資源配分を適正化することによって、経済成長を押し上げるのに寄与するかもしれない。
最近の国際通貨基金(IMF)などのわが国に対する勧告も、短期のデフレ効果を懸念するより中長期的な財政健全化を重視する方針が明確である。すべてが発想の転換を必要としているのだ。たとえば「IMF・世銀総会10月開催記念フオーラム」を機に2012年7月に来日したラガルドIMF専務理事は、「重い債務を抱えた国は、石の入ったバッグを背負った運動選手のようなものだ。速く走るには石、つまり債務を減らすことが必要だ」と指摘し、「消費税率引き上げは財政赤字を減らすのに最も効率の良い方法だ。IMFは日本の消費税増税を強く支持する」(「日本経済新聞」2012年7月23日)と主張している。もしそうなら、いまや累増した財政赤字が経済に与えるマイナスの効果をより重視し、中長期的な視点から思い切って財政再建の方向を打ち出し実行するべきだといえよう。
累積財政赤字は「石の入ったバッグを背負った運動選手のようなものだ」。短期的には景気下押しもあるが、中長期的には経済成長を押し上げる。財政再建なくして将来の成長はないということが述べられている。EUの経済成長をしている国の実例を見ても、そのようです。
成長で十分税収確保できるという論もありますが・・・
121p
高めの名目成長率を見込みこれを手段に財政再建を達成しようとする成長志向の政策運営は、かつて「上げ潮政策」といわれたことがある。とりわけ小泉内閣(2001〜06年)の後を引き継いだ安倍内閣の政策スローガンの1つが、「成長なくして財政再建なし」であった。財政再建は消費税率引き上げを含めた増税のイメージを与えるので、その代わりに成長ということを強調したかったのであろう。つまり成長率を高めれば、自然増収が発生しその結果、増税の幅が抑えられるあるいは増税自体を回避できるという発想であった。
122p
・・・2008年にリーマンショックが発生、世界的に景気が落ち込み日本経済も景気後退の局面に入ることになった。
・・・経済成長は予想した通りに推移する保証はなく、このような突発的な経済危機も訪れるだけに、成長頼みのみでは財政再建はできないということが判明したということだろう。
このような状況を考えると、成長だけで財政再建ができるとは到底思えない。上げ潮政策は、いたずらに甘い夢を巻き散らかしている嫌いもある。3つほどの疑問が湧いてくる。 まず第1に、一般に「上げ潮政策」では名目成長率3〜5%程度が前提とされるが、この高めの成長が財政再建の必要とする長期間、継続して実現するという保証はまったくない。上げ潮でなく引き潮が、早晩始まるかもしれない。そもそも政府はどんな手段で経済成長を高めようとしているのだろうか。
第2に、国の債務残高がごくわずかで毎年2桁の名目成長が実現した1960年代の高度成長ならいざ知らず、膨大な借金を抱え名目成長率がなかなかプラスに転じない今日、成長だけで財政危機を脱出できると考えるのは、あまりに甘い考えであろう。
そして第3に、成長が財政再建に与える悪影響を、まったく考慮していない。名目成長率が上昇すれば、インフレ基調となり長期金利も増加する。となると国債費(国債の元利払い費)も自動的に増え、歳出増の大きな要因となる。事実、長期金利1%上昇で、利払い費は1.6兆円増えると見込まれている。金利上昇の幅によっては、成長が生みだす自然増収の大半を費やし、あるいはそれでは賄えきれないかもしれない。となると日本銀行のゼロ金利の維持が、上げ潮政策の前提となる。そこからの脱却を目指す日銀の政策に、政府からの圧力が強まってくる。これでは歪んだ政策運営となろう。
名目成長率が財政再建の必要とする長期間、継続して実現するという保証はない。
膨大な借金を成長だけで解決できない。
成長が財政再建に与える悪影響を考慮していない。
増税が必要だとすれば、その安定財源は・・・
190p
なぜ消費税か?と問われたときに、大きくいって2つの理由が挙げられる。その一つが安定財源の確保であり、もう一つが租税負担のあり方に関するものである。
まず第1の点から、検討しておこう。今後伸びが避けられない社会保障費は、毎年1兆円以上の自然増があるといわれるように、予算上、最大規模で必ず支出される経費である。高齢社会の下でこの経費は絶対に必要であり、したがって安定的な財源を不可欠なものとしている。このために消費税増税しかないというのが、これまでの日本の実態を見るにつけあるいは欧州の経験から引き出される帰結だといえよう。
192p〜
消費税がなぜ必要かの第2の理由は、その負担のあり方に関連している。国民の方でも将来の税負担増は不可避だとの認識も次第に出てきたが、今後どのような形で、国民がこの税負担増を受け入れるのかが、大きな問題となる。
ここで重要な視点は、この税負担増は国民全体を対象とした社会保障サービスの維持にある以上、国を挙げてオールジャパンで負担する仕組みが欠かせないということである。つまり将来の税負担増にとって何よりも重要なことは、特定の人の税負担を重くするのでなく、できるだけ多くの人に何らかの形で負担してもらうことである。この考えを支持してもらうためには、国民の間で、負担感が公平でなければならない。日本においては本格的な税負担増が不可避である以上、「広く」「公平に」をスローガンに今後税制改革を進めるべきである。
政策課題と増税の整合性はどこに求められるのか・・・
164p
今後わが国における最大の政策課題は、言うまでもなく社会保障をいかに持続可能な制度として確立するかにあるといえよう。かかる点で、重要なことは社会保障制度の維持のためには安定財源を確保せねばならぬということである。公共事業費などのように、比較的自由に削減が可能な他の経費項目と比較し、社会保障給付は別個の特別な存在といえる。すでに述べたように、今後経費増の大半は、社会保障給付費の増加分だということである。ということは今後この経費増を賄う増税は、結果として社会保障給付費と一体化して考えねばならぬということになる。国民のサイドからすると、「純粋でない」公共サービスである社会保障給付の受益は、まさに直接的である。この費用のために増税が不可避となれば、これからは受益と負担の関係から許容できる税負担の額も、国民が判断すべきだということになろう。
「純粋でない」公共サービスとは・・・
54p〜
政府はいわゆる純粋公共財(pure public goods)のみを、われわれ国民に供給しているのでないという事実である。政府の財政活動の大部分は、いわゆる「純粋でない」公共財(impure public goods )と関連している、その代表的な例が、年金・医療・介護や生活保護などの社会保障サービスである。それは純粋な公共財・サービスの性格を持ち合わせていないだけに、政府のみしか供給できないというものではない。つまり国民全体の便益というより、特定の個人に便益を提供させるだけに本来市場でも提供できるはずである。しかしながら今日、この個別的便益を発生させる「純粋でない公共財」の分野が政治的な影響もあり拡大し、歳出規模の拡大に繋がっている。
61p
肥大化した財政構造が共通に持つ悩みは、「純粋でない」公共財の分野が拡大しすぎたことである。この財においては、かなりの程度便益が個々の受益者に帰属することから、次のような2つの問題を引き起こす。1つは、料金制度や自己負担に馴染みやすいにもかかわらず、通常無償ないし不当に低い負担で提供されるので、資源の浪費つまりムダ使いを招きやすい。医療資源のロス(検査づけや薬づけなど)が、この典型的な例である。もう1つが、選挙の際の集票に結びつきやすく人気取り政策となるので、政治家は一般に受益者負担の増加を極力避ける傾向になる。このような結果が、財政赤字への依存体質を助長することになる。
社会保障を充実させるためには、消費税や相続税の増税が不可避だろう。国民は社会保障費の充実を選ぶか、増税を選ぶか?他に確実だといえる選択肢はあるのか?
農業においてはそのほとんどが私的財にあたり、市場で解決できることがほとんどなので、近い将来において補償は大方、切り捨てられるだろう。
-
農業に明日はあるか? 92013.03.19 Tuesday
-
JUGEMテーマ:政治全般〜国会・内閣・行政
ナチュラル水耕栽培とコミュニティビジネス
地域コミュニティを空間的に取り戻す
日本をどうする?国民が学ばなければ、政治は動かない。 48
ドイツのケルン郊外にある農村の教会では、障がい者達の仕事の場と住む空間があった。パンを焼きソーセージを作り地ビールを醸造している。村人は積極的にその商品を購入する。村人と障がい者を教会のコミュニティの力で小さなビジネスとして繋いでいた。
中国のウイグルにあったチベット仏教の寺院では、仕事ができなくなった高齢者達の住む場所が提供されていて終の棲家となっていた。寺院の中庭には畑もあって、僧衣をきた知的発達障がいがあるとみられる人達も作業をしていた。中庭の掃除をしている人の中にも一人二人見かけた。寺院の別棟で経を刷っているところも見学させてもらった。版木の上に片腕の人が紙を乗せ、目の不自由と見られる人がバランで刷っていた。ゆっくりとした動きではあったが気持ちのよい滑らかさが印象的だった。その街は寺院を中心とする地域と共産党を中心とする地域の二つの中心を持っていた。寺院を中心とする地域は農村の風景を見せ、共産党を中心とする地域は学校や病院がある近代化された街だった。
私は地域コミュニティと自立支援のあり方が見えたような気がした。支えるのは政府ではなく、地域住民からの「積極的なつながり」を大切にする姿であった。
農協との「30年戦争」岡本重明著を読むと興味深いことが書かれていた。
164p〜
地域経済の活性化や身障者の雇用の受け入れ先として、農業に注目が集まってきた。渥美半島でも農業で身障者を受け入れるNPOが誕生した。
地元で長く身障者の養護教諭だった小林明夫先生が定年前に教員を退職して、2008年9月、NPO法人「気分爽快」を立ち上げた。身障者が、身体に負担のかからない水耕栽培を使ってレタスやハーブなどを生産する。小林先生は、自分が教員生活を送りながら、教え子たちが就職で困っている姿を見て、いつか自分が少しでも役立ちたいと思い、起業したのだという。今では十人近くの身障者を雇っている。
私は小林先生の志に共感し、準備段階から手伝っている。水耕栽培の施設も格安で提供した。当然ながら、障害を抱える人たちにも、仕事による収入は必要なのである。健常者並みの賃金を得られるならば、それが理想だ。身障者の経済的な自立が進むからである。身障者にとっても、いつまでも家族が面倒を見てくれるわけではない。
官僚は、身障者の雇用について法律で企業に対して義務を押し付け、雇用率の数字だけを改善させれば良いと勘違いしているのではないか。人間には、誰にも自尊心がある。身障者もしっかり働き、しっかり稼げる場があった方がいい。
166p
「新鮮組」ではちょうど新しい水耕栽培技術を確立させる寸前だった。屋上緑化の技術を転用し、シンプルで使いやすく、建設も簡単な画期的な仕組みだった。「ナチュラル水耕栽培」と名付けた。従来の水耕栽培を格段に簡素化したシステムである。小林先生にこの話を伝えたところ、すぐにでも検討したいとのことだった。
設備費が従来の水耕栽培設備の十分の一以下のコストで収まる。水と電気が使用できて、日光が享受できる場所ならば設置が可能だった。
168p
同じ頃、山口県宇部市にある社会福祉法人「むべの里」の身障者施設から引き合いがあり、やはり水耕栽培の導入が決まった。
169p
そこで、払は、山口県山陽小野田市の遊休農地として荒廃していた水田にナチュラル水耕栽培施設を建設した。前述した身障者の施設だ。遊休農地解消と、身障者の雇用、それが同時に実行できたのである。今、その設備ではネギを栽培し、予想以上にたくさん収穫ができている。地元大手スーパーなどにも販売している。冬季は水耕栽培施設を休業させ、大根の切干加工を行っている、身障者の労働の場を一年中確保でき、遊休農地の解消にもつながり、利益も出ている。
170p〜
ナチュラル水耕栽培農業生産システムの開発により、圃場の栽培回転率を格段に高めることができた。従来農法の欠点であった、多大な技術と労力を要する栽培管理作業をほとんど必要としなくなった。また、使用する道具は、はさみ一つで危険な作業がない。トラクターなどはもちろん不要。その結果、労働に対する無駄と、生産に関わる経費が少なくてすむのである。このように、総合的に、従来農法の無駄な部分を排除することで、一般に労働力にハンデがある身障者であっても十分利益を生み出す農業は可能なのだということが実証できたのである。作業も、立ち仕事のため、身体に掛かる負担も少ない。
このシステムの開発によって、身障者全体のうち、約80%の方は働くことができるであろうと、長年身障者教育に関ってきた小林先生から認めていただいた。
岡本の新撰組のホームページで新規参入のところを見れば詳しく紹介されている。私はこのナチュラル水耕栽培に別の可能性も見ている。それは地方においてもコミュニティが希薄になっている現実から、地域コミュニティを空間的に取り戻す方策のひとつとなれる可能性があると見ています。
持続可能な福祉社会へ1「コミュニティ」広井良典・小林正弥(編著)
勁草書房2010年1月25日第一版第1刷
第5章 コミュニティを空間的に取り戻す 岡部明子
はコミュニティの衰退についてこのように述べている。
113p
そもそもコミュニティの衰退を招いたのは、私たちのライフスタイルの変化である。コミュニティは、住むところと働くところが同じ空間、当たり前のようにあった。それが生産性優先で産業が発展するうちに、私たちの住む場と働く場の関係が断ち切られていった。そうしたライフスタイルを象るものとして、住む空間と働く空間が分離された都市や地域の構造ができていった。半面、職住を分離した都市構造によって生産効率優先のライフスタイルが計画的に誘導されていった。機能主義的な都市計画思想である。コミュニティは、職と住という機能に引き裂かれ居場所を失った。
その、薄れゆくコミュニティをつなぎとめる持続可能な方法の一つとして、コミュニティの助け合いの必要性が実感できるコミュニティビジネスがある。
127p〜
近年注目されるようになったコミュニティビジネスとは、「地域の課題をビジネスの手法を用いて解決する取組み」と一般に認識されている。「地域資源を活用すること」と「地域住民が主体的に担うこと」もコミュニティビジネスで重要とされる要件である。
128p
・・・コミュニティビジネスの担い手は、地域に住み地域で働いており、職住が一体化しているコミュニティの空間に暮らしている。すなわち、コミュニティビジネスは、働く場と住む場に引き裂こうとする力に抗って、コミュニティを守り地域の持続可能性を支えているわけだ。地域に住む人が地域のニーズに応えて、地域の人からお金をもらって地域の小さな経済を回すこと自体に、コミュニティビジネスの役割かあることになる。
現代の多くの人は喪失感に悩まされている。喪失感を回復する上で、コミュニティビジネスの重要性は高まっていると、私は感じています。自分への価値を喪失した人々に、最も大切なものは人の温かさだろう。
128p
哲学者の内山節は、市場で貨幣価値だけで流通する「冷たい貨幣」に対して、それとは異なる次元の関係が付与されている「温かいお金」があるという。
・・・「温かいお金」とは、「人と人の関係のなかで使用されるお金、人と人の関係のために使うお金」のことである。
「どれほど『冷たい貨幣』を『温かいお金』に変えることができるか」.
129p
コミュニティビジネスは、「私たちの等身大の関係のなかで、貨幣価値とは異なる価値を付与しながら、『温かいお金』を創造していくこと」を実践している。温かいお金で基本的な暮らしが成り立っていると、人はコミュニティの助け合いに支えられ安心して暮らせる。
他方、地域の外からの投資による企業進出や観光振興は、地域を「冷たい貨幣」の流通する市場へと組み込む方向に作用する。このように考えていくと、行政が奨励するコミュニティビジネスは、貴重な地域資源を活用して「温かいお金」の巡りをよくするはずが、それを「冷たい貨幣」の量的拡大に動員することに加担しているとはいえないか。
コミュニティビジネスとは、小さなビジネスの寄り合い所帯のようなものを私は想像している。様々な取り組みが考えられるが、公園というコミュニティを利用して、街の農業公園としてナチュラル水耕栽培の可能性は有効だと思えます。私達のコミュニティの中心は病院・学校・公園が主なものとなっています。特に公園は、世界を見渡しても元気な街には必ず立派な公園があります。学校の片隅に、病院の花壇代わりにもナチュラル水耕栽培の可能性はないだろうか。そして加工する人々のコミュニティと販売する人々のコミュニティが力を合わせれば、コミュニティの再生を必要とする人々の心の拠り所となるでしょう。
132p
コミュニティの成立要件は、・・・まちに住む人を支える仕事でささやかながら生計を立てている人が少なくとも住んでいることである。彼らの存在が、・・・「温かいお金]の回る空間を喪失させない。それが真に「人の暮らす空間」である。つまり、働くことと住むことが一体化している「人の暮らす空間」なくして、コミュニティは存在しない。「地域という「生活のコミュニティ」は回復しうるか」という広井の問いかけに即していうなら、生活と生産に分離された時点でコミュニティはすでに居場所を失っている。「生活のコミュニティ」自体が幻想であり、両者の関係をなんらかのかたちで修復することにより、地域というコミュニティは回復しうる.
街の商店街の協力も有効だろう。競争社会で生きている人々の心も和ませる、コミュニティビジネスをイメージしてみてください。ジョンレノンのように
Imagine all the people Sharing all the world
You may say I'm a dreamer But I'm not the only one
I hope someday you'll join us And the world will live as one133p
市場経済が支配的な社会にあっても、住機能のための空間でなく、単なる職住近接でもなく、働くことと住むことが一体化している「人の暮らす空間]がある。「人の暮らす空間」つまりコミュニティがセイフティネットとなって社会の持続可能性を支えることで、市場の経済活動は安心して展開されていく。
このように,市場の空間との持ちつ持たれつの関係の内に「人の暮らす空間」を取り戻すことがかなえば、もはやコミュニティを衰退に退いこんできた構図自体が霧消する――コミュニティは、市場が支配的な現代に居場所と役割を得て生き生きと復活するはずである。
このナチュラル水耕栽培は、実は大きなビジネスの可能性も秘めている。砂漠ででも農業ができる優れものなのです。
日本の農業が必ず復活する45の理由 浅川芳裕著 文芸春秋
の「39 砂漠で農業ができるって本当」では
30歳の青年が、溶液栽培の農業をはじめて、わずか3年で売り上げを60億にしている例が紹介されている。
砂漠には太陽がいっぱいで病害虫や雑草が少ない。イスラエルやエジプトなどの砂漠気候の国々から無農薬野菜がヨーロッパに大量に輸出されているらしい。土地も無尽蔵だ。
255p
ドバイ農場を訪問した日本の農業経営者はこう感想を述べました。「日本は周年の栽培のために、冬場にハウスで無理して石油を燃やして作物を作っている。病気も少なく燃料費も安いドバイの方が冬場は農業適地ではないか。日本の技術を導入し生産してみたい。その方が環境にもやさしく、農業ビジネスとしても合理的だと感じた」
-
農業に明日はあるか? 82013.03.17 Sunday
-
JUGEMテーマ:政治全般〜国会・内閣・行政
「亡国農政」の終焉 山下一仁著 を読む
ベスト新書 2009年11月20日 初版第1刷
日本をどうする?国民が学ばなければ、政治は動かない。 47
日本の農業の現代史を知ろうと思えばこの本がお薦めです。学問的すぎて難しいということはない。著者は官僚であった頃の経験と体験をもとに書いた、ドキュメンタリーとして読めます。それは農政の腐敗に立ち向かう人々の壮絶な闘いの記録であり、敗れていった志士達の姿でした。農政に詳しくない私でも歴史小説のように面白く読めた。
小泉、安倍、石破、麻生の政治家達も登場して、農政の昨日・今日・明日も見えるからなお面白い。今までに読んできた分厚く、しかめっ面をした農政の本からは学ぶことがほとんどなかったがゆえに、私にとっては学ぶことが多い書となった。
例えばこんな農政の平成史の一場面はどうでしょうか。
138p
減反見直し自体、農林水産大臣専管の行政事項である。しかし、自民党農林族の了解が得られず、検討すらできなかった。もちろん、麻生太郎政権下での石破茂農林水産大臣の試みをオモテ座敷で潰しだのは、自民党農林族や農協であるが、これは水面に出ている氷山の一角のようなものだ。農林水産省自体の中にも自民党農林族と気脈を通じ、大臣の指示に答えようとしない勢力があった。農政トライアングルの中では、大臣や総理にすら、重要な農政課題についての決定権や指導力はなかったのである。
石破のように、自分の意見を持っている議員が大臣になること自体、まれだった。かつては、総理大臣は自分の影響力を行使しようとして、各省の大臣には、族議員以外の素人を任命するのが常だった。少なくとも1990年代半ばまで、組閣のとき誰が自分の省の大臣になるのか、役人には予想がつかなかった。ほとんどの場合、意外な人物が農林水産大臣となった。こうなると、素人の大臣をそっちのけにして、農林水産省の役人と自民党農林族が決めたことが政策となってしまう。
つまり政治主導というよりも、政治がなかった、という腐敗の「極」にあったようです。その農林水産省の役人は農協と族議員に支配されていた。
137p
・・・残念ながら、農政トライアングルで政策を決めるのは、農林水産省ではなかったからだ。改革案を出しても、農協や自民党農林族につぶされてしまう。それだけではなく、農林族の意向を忖度する省内の人達によって、省内でもつぶされる。農林水産大臣の石破でも、自分の考えを通せなかったのだ。
農林水産省は自民党農林族によって支配されてきた。ときには農協(兼業農家)による自民党農林族を通じた「農林水産省の間接統治」が行われた。しかも、私の農林水産省内での経験からもおわかりのように、年々ひどくなっていった。
集票と組織防衛のために国民を食い物にしてきたとは、さすがに農政トライアングルの仕業といえる。「総理なんか上司ではない」の項目ではこんな記述もある。
135p
高い価格で農家を保護するという政策は、農協以外にも利権を生んだ。
輸入制限によって、国内価格を国際価格よりも高く維持する中で、一定量は海外の圧力によって「輸入割当制度」による輸入を認めていた。しかし、安い価格で輸入して高い価格の国内市場で販売すると、大きな差益が生じる。オレンジ、牛肉等の差益は、業界と農林水産省や国会議員との癒着も生んだ。牛肉については1987年、個別業者に「畜産振興事業団」の輸入枠を増やした見返りに、事業団職員が賄賂を受け取るという汚職事件が発覚している。
こうした既得権益を守るだけの農政を批判する良心的な声もあった。
かつて農林水産大臣を務めた渡辺美智雄氏(渡辺喜美衆院議員の父)は、「米価を上げて減反するのはストーブとクーラーを同時につけるようなものだ」と批判した。2008年5月には町村信孝官房長官(当時)が、「世界で食糧不足の国かあるのに減反しているのはもったいない、減反政策を見直せば、世界の食糧価格高騰に貢献できるのではないか」と発言した。
しかし、このような国政全体を考える声は、その都度、狭い世界の利益を優先する農政トライアングルにつぶされてきた。
第7章の「消されたWTO交渉マル秘戦略――松岡元農林水産大臣の死の謎」は最近に読んだ、どの小説よりも面白い。まさに、日本権力構造の謎、そのものだ。
176p
松岡のミニマムアクセスの解消という執念は、小泉元総理の郵政民営化への執念と匹敵するものがあった。小泉も秘書官の飯島も、安倍も、「理想とする政策の実現」という松岡の想いに共鳴するところがあったからこそ、農林水産大臣に推挙、抜擢したのではないだろうか。
農林水産大臣としての松岡は、省内の評判もよかった。もはや、役人を恫喝することも少なくなった。いろんな案件に精通しているうえ、自分の頭で考えて結論を出す。国会答弁でも事務局が答弁書を用意しても、それを見ないで答弁していた。安倍も認めるように、諸外国との交渉にも卓越していた。
常識的には、農林水産省国際部の事務方が考えるように、いったんWTOで約束したミニマムアクセスを帳消しにはできないが、ガットには「代償を払うことにより約束したものを撤回できる」という規定がある。松岡が活用しようとしたのは、この考え方だった。
ウルグアイ・ラウンド交渉では関税化特例措置の代償として、ミニマムアクセスの加重を飲まされた。松岡は逆に関税を大きく引き下げることで、その解消を狙ったのだ。
ミニマムアクセスとはデジタル大辞泉の解説によると
《minimum access は、最低限輸入義務の意》日本が高関税を課して輸入を制限する代わりに、最低限輸入しなければならない量の外国米。政府米として扱われる。平成5年(1993)ウルグアイ‐ラウンド農業合意による。MA米。
◆平成20年(2008)、ミニマムアクセス米の中で食用に適さないと判断された事故米の、食用としての転売が発覚して社会問題となった。安倍新政権がTPPに参加の意向を示し、農政の大転換を図ろうとしている下地には、このような経緯があってのことだったのです。安倍首相の「すべての関税をゼロとした前提でも、日本経済には全体でプラス効果が見込まれる」という発言には、農業を犠牲にしていくという負の意識はない、「農の自虐史観」から脱皮した成長戦略があるからです。今後の農政に自民党がどう舵を取っていくかは山下一仁のホームページや近著を読めば分かります。こうは言っていても、私は自民党には批判的です。
ですが・・・民主党の戸別所得補償政策は何が間違っていたのか?
197p〜
民主党は農家ごとに「生産目標数量」を定め、この目標を達成した農家に生産費と米価の差に相当する戸別所得補償を行うとしている。これは、「10トン作れる農家が食料自給率向上のために15トン作ったら直接所得補償を行う」というものではない。「10トン作れる農家が減反をして6トン作ると補償する」というものである。
日本の農業の力を削ぐものであった。我が郷土の誇り、柳田國男の考えとは違うものであったようです。
農業の現代史における歴史的分水嶺は1961年の「農業基本法」であった。
98p
農政に直接かかわった柳田國男らの「構造改革思想」を、経済学者シュンペーターの高弟である東畑精一とのちに農林次官となる小倉武一が集大成したものが、1961年の「農業基本法」と言ってよい。それは、農地改革で地主制を打倒した農政が、次なる目標を「零細農業構造の改善」に据え、日本農業の構造改革によってコストの低減を行い、農業と工業の所得格差を是正しようとするものであった。
102p〜
柳田が農商務省に在籍したのはわずか2〜3年だったが、彼は旺盛な論文執筆活動を行い、大農でも小農でもない「中農養成策」を論じた。当時の学界や官界で有力であった、寄生地主制を前提とした農本主義的な小農保護論に異を唱えたのである。
彼は、日本が零細農業構造により世界の農業から立ち遅れてしまうことを懸念し、「農業構造の改善のためには、農村から都市へ労働力が流出するのを規制すべきではなく、農家戸数の減少により農業の規模拡大を図るべきである」と論じた。現に存在する「微細農」ではなく、海外農業と競争できるよう構造改革を行い、企業として経営できるだけの規模を持つ2ヘクタール以上の農業者「中農」を養成すべきであると主張したのである(現在でも日本の平均農家規模は、ほとんどが1ヘクタール程度にすぎない)。
柳田は、「日本は農国なりとは農業の繁栄する国という意味ならしめよ。困窮する過小農の充満する国といふ意味ならしむるなかれ」と言った。
地主階級が米価引き上げによる所得向上を狙ったのに対し、柳田は「消費者家計のことを考えると、米価の引き上げではなく構造改革によるコストダウンによって農家所得を向上すべきだ」と主張した。
柳田國男といえば生家が福崎にあり、香寺の民族資料館の島津弥太郎先生は柳田國男研究の先駆でもある。私が高校生であったその昔に、民具のスケッチをさせていただいていた頃には先生も男盛りで勢いがあった。行くたびに人生哲学をたっぷりとご教授していただいたことが懐かしい。ビールを燗で飲まれたりする不思議な先生だった。先生が私のスケッチブックを覗き込んで「古いものには妖気がある。君の汚い絵にはそれが描かれている。」と大声で笑われたり、「この白い画面ほど自分を受け入れてくれるものがあるだろうか」と長い顎鬚を撫ぜながら、まるで仙人のような風貌でお話してくださった。おかげさまで、柳田國男は私の心の故郷となっています。数年前の新緑の頃にも、訪ねさせていただきました。先生はもう完璧なまでに仙人になられていました。あの頃の立派な装丁のぼろぼろになった柳田國男全集は先生の居間に積まれてあったが、埃は被っていなかった。
本書を読んでいて山下一仁もまた、カサンドラであったか、と思えた。あのギリシア神話のカッサンドラーです。
ニコニコ大百科でみると
ギリシア神話によれば、トロイ(イリオス)王の娘として生まれたカサンドラは神アポロンから予言能力を授けられたが、この予言は必ず当たる一方で、誰からも信じられることがないというものであった。
トロイ戦争の際にギリシア勢が木馬(いわゆるトロイの木馬)を置き去って撤退した際、カサンドラはこれを罠であることを予言により看破したが、市民から聞き入れられることはなく、計略は成功しトロイは滅亡した。
カサンドラについて[なぜリーダーは「失敗」を認められないのか]リチャード・S・テドロー著、土方奈美訳、日本経済新聞出版社、の第12章「あらたな視点」にこう書かれている。
307p
権力に対して真実を語ることは、常に賞賛されるが、実行されることは少ない。
『インテル戦略転換』の中で、アンディ・グローブは組織における“カサンドラ”の重要性を語っている。ギリシャ神話に登場するカサンドラは、トロイの凶事を予言した女預言者である。グローブは組織におけるカサンドラとは「迫りくる変化にいち早く気づき、早期に警報を発するような人間である」と書いている。グループシンクヘの解毒剤だ。たいていは起ころうとしている変化を、上級幹部よりよく知っている中間管理職がその役割を果たす。というのも「彼らのほうが現実世界の風がもろに吹き付けてくる“外界”で過ごす時間が長いからだ。別の表現をすれば、彼らの遺伝子にはまだ、古い価値観の下での生き残りを目指すような自然淘汰が起こっていないのだ」とグローブ。
リチャード・S・テドローは「・・・それは個人が現実を否認した結果として起こる。 否認は、今も当たり前のように起きている。妄想癖のある者だけでなく、きわめて合理的な人々も、その魔手にはまる。なぜなら否認は心地よく、都合がいいからだ。自らが創り上げた世界の住人にしてくれる――その世界が続くかぎり、の話だが。否認は“だったらいいな”の世界にいざなってくれる。ありのままの世界ではなく“こうだったらいいな”と思うような環境で生きられるようにしてくれるのだ。」
官僚の合成の誤謬とは、意外にこんな子どもじみたものなのかもしれない。
< 前のページ | 全 [2] ページ中 [1] ページを表示しています。 | 次のページ > |