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第10回医療と介護の勉強会
JUGEMテーマ:病気
 

10回医療と介護の勉強会

 

性感染症対策(エイズウイルス感染を含む)と子宮頸がん対策の現状と課題

地域での取り組みのあり方

 

95日(日) 103012時まで 姫路市民会館 4F 第3会議室

 

講師 白井 千香 先生

 

現職  神戸市保健福祉局参事(医務担当部長)
略歴
昭和61年筑波大学医学専門学群卒
東京都衛生局、江戸川保健所などを経て

平成3年から神戸市衛生局勤務

平成22年3月大阪大学大学院社会人修士課程終了にて公衆衛生修士取得
平成22年4月から現職
主な役職

日本性感染症学会 倫理委員会委員
大阪市立大学大学院医学研究科公衆衛生学・神戸市看護大学助産学科 非常勤講師

 

誰でも自由に参加できます。聴講無料。

 

主催 医療と介護の問題に取り組む地域リーダーの会

 

連絡先 ryourinin@live.jp

   

姫路の医療と介護を考える部屋 管理人

医療と介護の問題に取り組む地域リーダーの会 代表

入院患者と障がい者に笑顔とコンサートを贈る市民の会

          小嶋隆義

 

学習会開催に向けて                           

平成22824日 

 

とある病院の産科に、高校生と保護者が中絶の相談に訪れた。保護者は娘がHIV感染者であることと、中絶を希望することを泣きながら医師に伝えたが、医師の説明は保護者の納得できるものではなかった。

 

私はこの話を聞いたときに、保護者にも娘にも、それぞれに違う「命の軽さ」が存在していることを感じた。そして、「命の教育」がちゃんと行われていれば、誰も不幸にはならなかったのではないかと、強く感じた。個人情報の問題もあって、詳しく触れることはできないが、私の言わんとしていることを感じてもらいたい。

 日本国内でも、HIV感染者数は爆発的に増えている。

教育にできることがある。学校教育や社会教育で、伝えなければならないことがある。

子供たちに命の大切さを知ってもらいたい。

青少年に人間の尊厳を知ってもらいたい。

成人になったら社会貢献の必要性を知ってもらいたい。

母になったら、父になったら、次世代に伝えなければならないことを考えてもらいたい。

2、第3の人生で、善について取り組んでもらいたい。

残りの人生で、人生の美徳について語ってもらいたい。

みんなで、幸せと感謝について考えてもらいたい。

 

そんな、機会となるような、世代別の

「人の一生と医療のかかわり」という小冊子を作りたい、と考えています。

 

医療は2020年になるまでに崩壊します。

超高齢社会による医療需要が増えること(団塊の世代がガン適齢期に入ることも含む)で、医師や医療スタッフ、医療や介護施設、福祉予算が足りなくなるからです。人口の波で考えると高齢者人口は40%以上増えます。高齢者は複数の病気を罹患することから、3倍近い医療の必要性が出てきます。人・もの・金を倍増しても追い付きません。もっと、早い段階で行政や立法責任者にも考えてもらえていれば良かったのですが、もうすでにどんな取り組みをしても間に合わない段階になってしまいました。坐して死を待つ、位に酷くなっています。医療も介護も、多くの犠牲者が出ます。

 

しかし、多くの犠牲者が出る前に地方は地方の責任において、できることがあります。

「医療と介護の、これからの行政の取り組みの設計図を明らかにした地域条例を作ること」

「人の一生と医療のかかわり、という小冊子を作り徹底的な啓発を行うこと」

「在宅介護支援プロジェクトを立ち上げて、大型の予算を付けること」

以上3点を直ちに実行していただければ、地方の状況も少しは変わります。

 

自殺実態白書を見てもらえれば分かりますが、姫路では姫路警察署管内の自殺実態で、病苦を理由に自殺した人が、姫路は全国で2位であることも、考慮しなければならないでしょう。

 

県に対しても同じことが言えます。

が、更に県はしなければならないことがあります。

大学での医学部新設の動きを作ることです。

兵庫県は県民人口当たりの医学部定員数が全国の下から2番目で、兵庫の医師不足を深刻化させています。医学部をあと2つ新設すると全国平均になります。兵庫県立大学医学部新設が急がれます。

 

私は過去9回の学習会で多くのことを学びました。医療や介護の崩壊を、危機ぐらいにはできることも確信しています。2020年までの崩壊を2025年まで持ちこたえれば、混乱は5年で済みます。2030年から高齢化率は増えますが、高齢者の数は少なくなっていくからです。

 

医療や介護の現場を見てください。女性の多いことに誰でも気がつきます。女性の力がなければ医療や介護は支えられないことが分かっていただけるでしょう。医療や介護の危機が深刻化していく中で女性の健康を守る政策の必要性が、更に重要な課題になっていることも分かっていただけると思います。  

前回の子宮頸がん予防の学習会も今回の性感染症対策の学習会も、女性の幸せを考えるだけではなく、社会全体の幸せを考えることである、と私は考えています。

 

少子高齢化、団塊の世代の大量退職による産業労働人口の減少、世代会計で見る世代間格差の広がり、等は女性の元気を応援し、社会参加しやすくすることで解決できることが多くあります。

 

国がしなければならないことも多くあります。福祉を支える税制改革や規制緩和、政府の役割の再考も急がれます。しかし、残された時間はもうほんの少ししかありません。

 

国や地方のことを少し述べましたが、地域住民の意識改革も必須の課題です。

地域住民の意識改革なしに、国や地方の政策が効率よく機能することはないでしょう。

 

日本の社会保障制度は「見えない社会保障制度」で支えられてきました。行政が積極的にならなくても、家族が支えてきました。日本の福祉は家族が財政的にも実際の行動面も支えてきましたが、高齢者の増加や家族の変容で、福祉が家族の下支えで成立しなくなってきています。

また雇用の変質で「家族賃金」の性格を持っていた年功賃金や、手厚い企業福祉も期待できない時代になりつつあり、社会の仕組みが大きく変わろうとしています。

社会保障制度を根本的に見直す時期が来ていることは、皆さんの考えられている通りです。

 

今後も勉強会を重ねて、議論を深化させていきたいと考えています。

posted by: 応援しよう東北!(雑華堂) 小嶋隆義 | 生と死 | 09:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「2020年、日本が破綻する日」
 

『・・・財政は破綻する確率が高いのである。すなわち、私達に残された時間はそう長くはない。

 仮に財政破綻が起これば、長期金利は急上昇しインフレーションとなる。すると、政府のみでなく、借入金を抱える企業や住宅ローンを抱える家計も資金繰りが困難になる。

 最悪ケースでは、次々と企業が倒産し失業が増加。株価は暴落し、年金の実質価値はゼロとなり、家計も破綻。政府は税収が不足し、社会資本の維持もできない。政府は異常事態に対応するため、中央銀行に直接国債を引き受けてもらう。

 また、裕福な家計や企業は自己防衛のため多くの資産を海外に逃避させるだろう。その結果、為替レートは暴落し、石油や食料品などの輸入物価も急上昇していく。すると、インフレーションや金利上昇は加速・・・。最終的に、円、日本株、国債のトリプル暴落に至り、日本経済は崩壊というシナリオも想定される。』

 

この文章は『2020年、日本が破綻する日 危機脱却の再生プラン』

小黒一正著 日経プレミアシリーズ 20108月 一刷

の はじめにの一節です。

 

著者は、財務省財務総合政策研究所主任研究官、(財)世界平和研究所主任研究官などを経て、20108月より一橋大学経済研究所世代間問題研究機構准教授。経済産業研究所コンサルティングフェロー。専門は公共経済学。

 

著者は日本経済の崩壊の危機を2020年と言っている。

 

『政府が抱える巨額の債務は、主に家計が支えている。貯金や年金・保険という形で集まった家計マネーの多くが金融機関を通じて、国債に流れ込んできた。このように、今や約1400兆円にまで膨張し家計貯蓄をベースに、これまで、国債は安定消化が図られてきた。だが、これから急速に高齢化が進展し、団塊世代が老後の生活費として貯蓄の取り崩しを本格化させる中、これまでのように家計マネーが国債を安定的に吸収できるとは限らない。むしろ、政府の借金が2020年までにその原資である家計貯蓄を食い潰してしまう・・・』

 

『一般政府債務は、毎年3%弱のスピードで増加していき、2022には100%を超過する。すなわち、政府の借金が完全に家計貯蓄を食い潰してしまうのである。』

 

『政府は国内から借金ができなくなる』

『国内金利が急騰するシナリオが濃厚となる』

 

『国債の増加が、民間部門の生産活動に必要となる資本を圧迫し、金利の上昇をもたらす現象を「クラウディング・アウト」というが、政府の借金が家計貯蓄を食い潰すまでの過程において、それが急速に加速するのである。』

 

『・・・今のままでは、2020年までに突然、金利が急上昇する「相転移」が起こる可能性がある。

 なお、金利が急上昇すると、国債価格が大幅に下落するから、金融機関は国債という大量の不良債権を抱える可能性があり、最悪のケースでは、自己資本が欠損・減少し、金融危機が再燃しかねない。また、そのような状況ではもはや増税もできないことから、政府も借金の支払いが困難となり、その時点で財政破綻となる・・・』

 

『金利が成長率を上回る可能性がある限り、財政破綻のリスクは存在する。』

『アメリカやイギリスなどの先進国諸国と比べて、日本財政の破綻確率は突出している。』

 

第一章を読んだだけでも、今の日本の危機的な状況が分かってもらえるだろう。

 

2章を読み進めると『暗黙の債務』という言葉が出てくる。

『社会保障が抱える「暗黙の債務」は年金の債務のみではない。今の公的年金は、老齢世代が必要な年金を現役世代が支える「賦課方式」という仕組みを採用しているが、医療や介護も老齢期に支出が集中し、その支出を現役世代が支える仕組みになっており、実体としては賦課方式と同じだ。だから、今の医療や介護も、年金と概ね同じ構造となっており、暗黙の債務を抱えているのだ。』この暗黙の債務も含めると、約2100兆円にも達する・・・』

 

3章では『リブソン・リスク』のことも紹介されている。

4章では『バローの中立命題』が成立しないことも述べられている。

 

『暗黙の債務』『リブソン・リスク』『バローの中立命題』や『ジニ係数』『世代会計』という言葉も本書を読んで勉強してもらいたい。

 

5章、第6章では解決策が提案されている。

おわりに『世代間格差の是正と財政の持続可能性を確保する観点から、財政・社会保障の再生に向けた解決策(政策手段)を、できるだけ分かりやすいように記述したつもりである。キー・ワードは「事前積立」「社会保障予算のハード化」「管理競争」「マクロ予算フレーム」「世代会計」といった政策手段であり、それらを調整する「世代間公平委員会」という政治から独立した組織と、その枠組みを定める「世代間公平基本法」という法律である。これらの政策手段が整えば、世代間格差の是正と財政の持続可能性の両立は必ず達成できるはずだ。』

 

とにかく、この本を読んで、日本の近い将来の危機について考えてもらいたい。

 

日本は財政赤字を積み重ね、崩壊の道を直走っている。団塊の世代が大量退職し、産業労働人口は激減し、景気はもっと悪くなる。このままでは、税収は落ち込み、福祉行政は支えられない。

2020年から2030年にかけて高齢者人口が45%も増える。高齢者は複数の病気を罹患するので、医療と介護の需要は現在の倍以上になり、更に2020年から団塊の世代が癌適齢期を迎えるのだが、医師もいなければ、施設もなく、予算もない。

高齢者の貯蓄は医療と介護が必要となった時に切り崩される。国債は2020年から毎年10年間、少なく見積もっても35兆円から40兆円がそのために売られることになる。現在の国の総予算207兆円の79兆円が国債費で、これにその35兆円から40兆円を足すと総予算の半分以上になる。社会保障費が1,5倍から2倍程度になるので、現在の70兆円から100兆円を超える。国債費と社会保障費だけで2009年度の一般会計と特別会計の純計207兆円を遥かに突破するのだが、国民や行政にその危機感がないところが危険だ。

 

日本は今、必ず負ける戦争に突入しようとしている。そんな気がしているのだが、この状況はどこかで読んだことがある。猪瀬直樹の『昭和16年夏の敗戦』を思い出した。

 

あらすじは『空気と戦争』猪瀬直樹著 文春新書

88p〜石破茂氏の発言によく纏められている。

『昭和16年夏の敗戦』

 200729日の衆議院予算委員会で、石破茂元防衛庁長官が僕の本を引用して、つぎのような発言をしたという。人づてに聞いてビックリし、議事録をとりよせてその発言を確かめてみた。

 

「猪瀬直樹さんが書いた『日本人はなぜ戦争をしたか 昭和16年夏の敗戦』という本をぜひ多くの方に読んでくださいということを私はいつも申し上げている。なぜ昭和二十年夏の敗戦ではなくて昭和16年夏の敗戦なのかということであります。

 昭和十六年四月一日に、今のキャピトル東急ホテルのあたり、首相官邸の近く、当時の近衛内閣でありますが、総力戦研究所という研究所をつくりました。ありとあらゆる官庁の三十代の俊才、軍人、マスコミ、学者、三十六名が集められて、もし日米戦わばどのような結果になるか、自由に研究せよというテーマが与えられた。

 八月に結論が出た。緒戦は勝つであろう。しかしながら、やがて、国力、物量の差が明らかになって、最終的にはソビエトの参戦という形でこの戦争は必ず負ける、よって日米は決して戦ってはならないという結論が出て、八月二十七日に、当時の近衛内閣、閣僚の前でその結果が発表されるのであります。

 それを聞いた東條陸軍大臣は何と言ったか。まさしく机上の空論である、日露戦争も最初から勝てると思ってやったわけではない、三国干渉があってやむを得ず立ち上がったのである、戦というのは意外なことが起こってそれで勝敗が決するのであって諸君はそのようなことを考慮していない、この研究の成果は決して口外しないようにと言って終わるわけですね。

 なぜあの戦争は負けたか。要は、輸送というものを徹底的に軽視したからですよ。つまり、陸軍では、『輜重兵が兵ならば、電信柱に花が咲く、輜重兵が兵ならば、チョウチョウ、トンボも鳥のうち』と言われて、南方を幾ら占領しても、輸送する船が要る。しかしながら、それに護衛がつかない。なぜならば、帝国海軍は、日本海大海戦もこれあり、艦隊決戦ということを重視したのであって、商船を護衛するようなのは、それは腐れ士官の捨てどころだ、このように言われた。

 しかしながら、戦争を始めるに当たって損耗率というのを計算しなきゃいけない。つまり、南方から本土に向かう船のどれだけが沈められるかというデータがなければ開戦に踏み切れない。そんなデータはどこにもなかった。帝国海軍にもなかった。どこかないか、とにかく出せということで、ようやっと引き出してきたのが、第一次世界大戦でドイツの潜水艦にイギリスの商船が沈められた、その損耗率の10%、よしよし、これだということでこの数字を入れた。それならばやれるなということであの戦争になってしまった。しかし、その数字がでたらめであって、結果として、この国はああなってしまうわけですね。

 なぜあの戦争になったのか。それは、政治をつかさどる者が、おのれも知らず、そしてまた相手の国力も知らずそんなことできないじゃないかと言ったらば、きさまは大和魂をどこに置いた、それでも日本人か、こう言われてしまって、前線に飛ばされるか、首になるか、それだったらば、山本七平さんに『「空気」の研究』というのがあるけれども、やっちゃえ、やっちゃえということで、とうとうあんなことになってしまったということだと私は思っています」(*「輜重」とは、軍隊に付属する糧食・被

服・武器・弾薬などの軍需品の総称。「輜重兵」はその輸送に任ずる兵士)

 

朝日新聞(2007年三月十四日夕刊)によると、僕が『日本人はなぜ戦争をしたか 昭和16年夏の敗戦』で書いた総力戦研究所の話を、石破氏はよく引用して、国を誤る政治家の無能無責任を憂えているそうだ。 

                    

『昭和16年夏の敗戦』は世界文化社から同名のタイトルで出版されたのは1983年。その後、文春文庫版が86年に出て、その後小学館から『日本の近代 猪瀬直樹著作集(全十二巻)』第八巻に入り、2010625日初版が中央公論新書で出されている。

ものすごく面白いので、是非に読んでもらいたい。

 

『昭和16年夏の敗戦』第2章 イカロス達の夏では

戦争に至った旧憲法の欠陥が描かれている。

『「大日本帝国憲法」では統帥権は天皇の大権に属する。“神聖にして侵すべからず”だから政府は関与できない。しかし事実上その大権を行使したのは天皇自身ではなく統帥部であった。統帥部は政府と別個に(勝手にといってもよい)作戦を発動できた。いわゆる軍部の独走とは旧憲法の、欠陥により生じたものだ。

 明治藩閥政権時代にはこの“欠陥”が露呈しなかった。山県有朋に代表される元勲らの権威が、制度的欠陥を人為的にカバーしていたからである。

 東條内閣のスタートを「朝日新聞」は「統帥、国務、高度に融合」と報じた。軍人宰相なら、「統帥(大本営)」と「国務(政府)」の双方にニラミがきく、とみたのだった。しかし、東條はただの官僚にすぎず、元勲山県有朋ではなかった。時代がちがうのである。』

 

そして情報操作の恐ろしさにも触れている。

『第2次世界大戦は資源戦争だったといってよい。なかでも石油は最も重要な戦略物資であった。』

『賀屋や東郷ら開戦反対派はこの数字を頼りに統帥部に抗していこうという姿勢で企画院の資料に頼ろうとした。しかし、この企画院の提出する数字が実はくせものだった。

 十月二十九日の連絡会議で鈴木企画院総裁は「南方作戦遂行の場合液体燃料如何」という問いに対して次の数字をあげて答えている。

 「第一年目、二百五十五万トン、第二年目十五万トン、第三年目七十万トン、それぞれ残る」

 「残る」ということは、“戦争遂行能力あり”を意味する。すでに連絡会議では、このまま推移すると石油のストックは二年間で底をつくこと、人造石油はまだ実験的段階で需要にこたえることは不可能、ということが数字で示されていた。しかし、南方油田を占領すれば石油は「残る」のである。

 日米開戦反対派の喰い下がりの唯一の根拠は、こうして消滅していく。十一月一日の深夜、連絡会議はついに日米開戦を決める。』

 

そして、空気の問題には『空気と戦争』でこう触れている。

160p

 『それでは鈴木総裁に数字的根拠を与えたかたちになってしまった高橋中尉は、戦後、どのような思いを抱いていたのだろうか。

 彼は当時、自分は若いし、ただの末端役人だと思っていた。だが彼らがつくった需給予測、南方石油の取得見込量が、開戦の意思決定に大きな影響を及ぼした。

 戦後になって当時を振り返ったときの高橋さんの「悔恨」をここに記す。

「これならなんとか戦争をやれそうだ、ということをみなが納得し合うために数字を並べたようなものだった。赤字になって、これではとても無理という表をつくる雰囲気ではなかった。そうするよ、と決めるためには、そうかしようがないな、というプロセスがあって、じゃこうこうなのだから納得しなくちゃな、という感じだった。

 考えてみれば、石油のトータルな量だけで根拠を説明しているけど、中身はどのくらいが重油でどのくらいがガソリンなのかも詰めていない。しかも数字の根拠をロクに知らされていない企画院総裁が、天皇陛下の前でご説明されるわけですから、おかしなものです」

186p

『山本七平も『「空気」の研究』でつぎのように述べている。』

「われわれはまず、何よりも先に、この『空気』なるものの正体を把握しておかないと、将来なにが起こるやら、皆目見当もつかない。」

 

日本が破綻する日は、敗戦に向かう当時と酷似している。法律に不備があっても既得権益を持つものの村意識による抵抗、リーダー不在の官僚依存、無責任な情報操作、空気で決められていく意思決定。日本の姿は今も変わっていない。日本はこのまま2度目の敗戦に向かっていくのか・・・。

紹介した『2020年、日本が破綻する日 危機脱却の再生プラン』『昭和16年夏の敗戦』を読みながら、考えてもらいたい。

posted by: 応援しよう東北!(雑華堂) 小嶋隆義 | 政治 経済 | 19:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
映画「キャタピラー」の正義について
JUGEMテーマ:映画館で観た映画
 

815日は若松孝二監督の「キャタピラー」という映画を見てきた。大阪では監督と出演者の舞台挨拶があったようだが、神戸のシネルーブル神戸は毎月15日が1000円の日ということで、舞台挨拶より割引料金を選んだ。実はそれだけの理由でもなかった。出来上がった作品は監督の手を離れるので、監督のものではない。公開された作品は観客のものなので、舞台挨拶で変な先入観が邪魔をしてはいけないとも思って、あえて舞台挨拶を避けたという理由もある。若松監督の映画を見るのはこれが初めてだから、少し拘りも持った。

 

あらすじはホームページを見ると、以下のように書かれている。

■あらすじ

一銭五厘の赤紙1枚で召集される男たち。シゲ子の夫・久蔵も盛大に見送られ、勇ましく戦場へと出征していった。しかしシゲ子の元に帰ってきた久蔵は、顔面が焼けただれ、四肢を失った無残な姿であった。村中から奇異の眼を向けられながらも、多くの勲章を胸に、「生ける軍神」と祀り上げられる久蔵。四肢を失っても衰える事の無い久蔵の旺盛な食欲と性欲に、シゲ子は戸惑いつつも軍神の妻として自らを奮い立たせ、久蔵に尽くしていく。四肢を失い、言葉を失ってもなお、自らを讃えた新聞記事や、勲章を誇りにしている久蔵の姿に、やがてシゲ子は空虚なものを感じはじめる。久蔵の食欲と性欲を満たす事の繰り返しの日々の悲しみから逃れるように、シゲ子は「軍神の妻」としての自分を誇示するかのように振る舞い始める。日本の輝かしい勝利ばかりを報道するニュースの裏で、東京大空襲、米軍沖縄上陸と敗戦の影は着実に迫ってきていた。そして久蔵の脳裏に忘れかけていた戦場での風景が蘇り始める。燃え盛る炎に包まれる、中国の大平原。逃げ惑う女たちを犯し、銃剣で突き刺し殺す日本兵たち。戦場で人間としての理性を失い、蛮行の数々を繰り返してきた自分の過ちに苦しめられる久蔵。混乱していく久蔵の姿に、お国の為に命を捧げ尽くす事の意味を見失い始めるシゲ子。1945年8月6日広島、9日長崎原爆投下。そして15日正午、天皇の玉音放送が流れる中、久蔵、シゲ子、各々の敗戦を迎える。

 

映画の仕上がりは、鉈一本で木を刻んだ円空仏の印象を受けた。同じようなシーンのリフレインが映画を単純化し、映画の意図を記号化している。天皇、戦争犯罪、人間の欲望。緻密に作られた映画ではない。道で拾った木に彫った「木端仏」のような荒々しい作りだ。映画が言おうとすることも複雑ではない。家の前にある池に月が映る。空に月があり、家の前にも月がある。その月もまた、現実であり、夫・久蔵を呑み込んでいく。この単純さが、庶民のあばら屋の隅に飾られた祈りのような、一途さを感じる。

 

寺島しのぶの演技は素晴らしかったが、目頭の眼鏡の痕が気になった。映画の中で彼女が眼鏡をかけているシーンはない。蝉が鳴いているのに、久蔵が寝ている蒲団が分厚いとか、芸術家KUMAが太りすぎていて緊張感がないとか、婦人会の一人の眼鏡が高級品過ぎるとか、主題歌の「死んだ女の子」は7歳の子の歌なのに、映画に「死んだ女の子」とイメージがつながる子供が出てこない不自然さが気になった。私が監督なら赤い着物を着たKUMAに、赤い着物を着た日本人形を抱かせていただろう。

 

寺島しのぶの演技以外はすべてが断片の繋ぎ合わせだった、と言える。監督にとってはそれが、断片ではなく断面であったのかも知れない。繋ぎ合わせていることをあえて見せることで、なめらかにつながらない現実の不条理のようなものを見せたかったのかも知れない。大きな石がゴロリゴロリと転がるような、止められない宿命のようなものかも知れない。

 

映画の主題歌はいい歌だ。元ちとせのCDも買って帰った。映画の主題歌の飴と、蛍の墓の節子の骨の入ったドロップカンのイメージが重なるのは、ここが神戸だからだろうか。

 

若松監督は「正義の戦争なんて、どこにあるんですか?」と問いかけている。

では、若松監督の言う正義とは何なのだろう。

公式ガイドブックにはこう述べられていた。

『僕は、1982年、パレスチナ難民キャンプ、シャティーラキャンプの大虐殺の直後に現地入りをしたんです。キャンプの中は死体の山ですよ。しかも、女性や子どもばかり。子どもは将来フェダイーン(戦士)になるから、そして女性は、フェダイ〜ンとなる子どもを産むからという理由でイスラエル軍によって殺された。一番弱い存在が、攻撃を受けたのです。

 戦争とは、そういう事です。

 日本は、アジアを欧米支配から解放するのだといって、戦争を始めた。

 大国によって分断され、泥沼の朝鮮戦争が始まった。

 アメリカは、ベトナムの解放だといって北ベトナムを爆撃した。

 大量破壊兵器を捨てさせるべく、イラク戦争が始まった。

 いろいろな国の大義名分が付けられますが、でも、正義の戦争なんて、どこにあるんですか。繰り返しになりますが、戦争は、殺すか殺されるかなのです。人間が人間を殺すんですよ。

 この映画では、戦争とは何なのか、戦争によって人間が破壊されていくとはどういうことなのかを、正面から描きたかったのです。それも、派手な戦闘シーンなどではなく、人間を通して描きたかった。

 戦争を知らない世代の人でも、シゲ子の状況は、なんとなく理解できるでしょう? 抑圧され続けてきた彼女の思い、彼女を取り巻く空気の重たさ、そういうものは、なんとなくリアルに感じ取ることができるのではないかと思っています。

これが戦争なんだ、ということを、戦争を直接知らない若い人たちにも理解して欲しい。どうか、あの悲惨な戦争のことを忘れないで欲しい。そして、国家による殺し合いに、加担する側にはいかないで欲しい、そういう思いを込めたのが、この作品なのです。』

 

若松監督にとって、この映画を撮るということが正義だったのだろう。

 

マイケル・サンデルの『これから「正義」の話をしよう』早川書房には

『正義には美徳を涵養することと共通善について判断することが含まれる。』とある。

戦争が美徳を涵養することがあるのか、共通善について判断したうえでの戦争はあるのだろうか。

 

昨夜にたけしの番組に安倍元総理が出ていた。

マイケル・サンデルの『これから「正義」の話をしよう』早川書房には

こんなことも書かれている。

 

9章 たがいに負うものは何か?―――忠誠のジレンマ

歴史的不正に対する公的謝罪をめぐって、苦悩に満ちた議論が数多く繰り広げられてきた。

謝罪と補償 270p〜

 

『日本は、戦争中の残虐行為への謝罪にはもっと及び腰だった。1930年代および40年代に、韓国・朝鮮をはじめとするアジア諸国の何万人もの女性が日本兵によって慰安所に送られ、性的奴隷として虐待された。1990年代以降、日本はいわゆる「慰安婦」への公式の謝罪と損害賠償を求める国際的圧力の高まりに直面してきた。1990年代には、民間の基金によって被害者への支払いがなされ、日本の指導者たちもある程度の謝罪を行なってきた。しかし、2007年になってから、当時の安倍晋三首相が、慰安婦の強制連行の責任は日本軍にはないと強弁した。それに対してアメリカの連邦議会は、慰安婦の奴隷化への日本軍の関与について日本政府が正式に認め、謝罪することを求める決議をした。』

 

ドイツのホロコーストへの賠償金について、オーストラリア政府の先住民族への責務について、アメリカの奴隷制度の後遺症について、その謝罪の態度について語り、安倍元総理の強弁とを比較している。しかし、アメリカの連邦議会の謝罪することを求める決議も正義だとは書いていない。

273p

『公式謝罪を正当とする主な理由は、政治共同体の手によって(あるいはその名において)不正に虐げられた人びとを追悼し、被害者とその子孫にいまなお及ぶ不正の影響を認め、不正によって害を与えたり、それを防ぐのを怠ったりした側の過ちを償うためだ。公的な姿勢としての公式謝罪は、過去の傷をふさぎ、道徳的・政治的な和解の基礎づくりに役立つ。賠償金やそのほかの形の金銭的補償も、同じ根拠によって、謝罪と償いの具体的な表現として理にかなっている。被害者やその子孫におよぶ不正の影響を軽減するのにも役立つ。

 これらのことが謝罪の根拠として十分かどうかは、状況しだいである。ときには、公式謝罪や補償の試みが有害無益となることもある。昔の敵意を呼びさまし、歴史的な憎しみを増大させ、被害者意識を深く植えつけ、反感を呼び起こすからだ。公的謝罪に反対する人びとはそうした懸念を表明する。結局、謝罪や弁償という行為が政治共同体を修復するか傷つけるかは、政治的判断を要する複雑な問題なのだ。答えは場合によって異なる。』

 

日韓戦後処理問題についての菅総理や仙谷官房長官の発言は、国民に韓国へ謝罪をする十分な根拠を示しただろうか。個人的賠償をするのならば、それは国民の税金である。「政治的判断を要する複雑な問題なのだ。答えは場合によって異なる。」というサンデルの言葉は、政治家の国民への態度も問題としていることを忘れてはならない。

 

猪瀬直樹の『日本の信義 知の巨星十人と語る』小学館 の

高坂正堯との対談で猪瀬はこう語っている。

113p

『謝るか強弁。どっちも思考停止で、戦後の日本人の精神安定用の文脈です。』

 

同書で、吉本隆明と猪瀬はこう対談している。

71p

『吉本 たとえば、従軍慰安婦賠償問題。村山とか武村(正義)とかいわゆる昔は左翼的、進歩的だった人たちは、国民運動をして賠償金を払おうなんていう。そんなバカな発想をするやつは許しておけねえ。当時の軍隊は戦場に慰安婦を連れていくのが当たり前だったですよ。人間の性の本質の問題でもあるんだ。これは国家が制度として賠償する以外に、絶対ないです。

猪瀬 しかし小沢一郎はイデオロギーの面では賠償反対の人びとに支持されている。いっぽうで小沢は皮膜を破ろうとしている。そこが小沢一郎をわかりにくくしていると思う。イデオロギーで保守だけれど、徹底した合理主義者であろうとする。これは一種の矛盾なんですね。・・・

・・・合理主義の極致を突き詰めると、どこかで天皇制にぶつかる。』

 

9411月の対談です。民主党の困難は小沢の矛盾でもあるようだ。

 

吉本は「国家が制度として賠償する」ことが信義だと言っている。

もともと戦争は個人的にできるものではないが、久蔵の「逃げ惑う女たちを犯す」蛮行の罪が、許されるわけでもない。戦争だから仕方がなかったという言い方は、戦争を肯定するものの貧弱な言い訳にしか過ぎない。正義とは、信義とは、一人ひとりが責任をとることだ。個人が無力であるならば、集団も無力であり、国家も無力だ。戦争に反対ならば、一人ひとりが大きな声で反対だと叫ばなければならない。

 

正義とは、人任せにせず自分で責任を持って立つことから始まる。保守であろうと合理主義者であろうと、国や集団に甘えていては正義とは遠い。

 

若松監督の「忘れるなこれが戦争だ」は久蔵、シゲ子のそれぞれに戦争がある。一人ひとりに戦争があるのならば、一人ひとりが戦争と向き合わなければならない、というメッセージであるのだろう。

 

日本は2017年からの崩壊が本格化する日に向かって、一日一日が過ぎている。2025年、気がつけば大量の犠牲者が出て、敗戦という過去の過ちを繰り返してはいけない。一人ひとりが責任を持って、明日に取り組まなければならない。テレビばかり見ていては何も得られない。本を読め。とりあえず『2020年、日本が破綻する日』小黒一正著 日経プレミアシリーズを読むべし。

 

posted by: 応援しよう東北!(雑華堂) 小嶋隆義 | 映画レビュー | 08:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
映画「ザ・コーブ」に物申す。
JUGEMテーマ:映画館で観た映画
 

映画「ザ・コーブ」を見て一カ月が過ぎた。とてもよくできた映画だったが、釈然としないものが残って悶々としていた。何が言いたいのか、何が目的なのか、なぜアカデミー賞が与えられたのか?

 

パンフレットのレビューを見ると

「これは本物の恐怖だ」

 (ウォールストリートジャーナル紙)

「スパイ・スリラーのような展開で、驚くほどよく作られたドキュメンタリー。」

 (ニューヨーク・タイムス紙)

「パワフルで面白い。サスペンス・テイスト。近年稀に見る映画。」

 (ボックス・オフィス・プロフィッツ)

「ぞっとするようで美しい。悲劇のバレエのような作品。」

 (ゴア・ヴァービンスキー/パイレーツ・オブ・カリビアン監督)

「信じられないくらい感動的で、恐ろしくて、わくわくする素晴らしい作品。

ここ数年見たドキュメンタリーの中でもベストのうちのひとつ。」

 (クリス・コロンバス、ハリーポッターと賢者の石 監督)

 

ここに書かれているレビューの通りだ。これほど周到に計算された、ドラマティックに撮られたドキュメンタリー映画を今までに見たことがない。私がアメリカ人だったら、手放しで褒めていたが、日本人だから、何かが引っ掛かった。

 

この映画がアカデミー賞を取ったのは、オバマ大統領の政策と大いに関係がある。環境政策と社会起業家支援です。グリーン・ニューディールと社会起業家庁や社会投資基金ネットワークの設立によって、シリコンバレーはグリーンバレーと呼ばれ、IT革命はグリーン革命と呼ばれるほどの環境市場ビジネスが隆盛している。「キャピタリズム マネーは踊る」マイケル・ムーア監督が描いた世界は、すでにアメリカにとっては過去のものだったのです。ITバブル、住宅バブル、怪しげなファイナンスから未曾有の金融危機と至ったアメリカンドリームは、今度は「スピリット・イン・ビジネス」を語り始めた。

 

ナチュラルステップという言葉を聞いたことがあるだろうか?解説は後日にするとしよう。

ビジネスは人(People)、地球(Planet)、そして利益(Profit)の3つのPを統合することで生み出すメリットを見つけた。ただ只管に利益を求めることから、利潤追求を超えた社会的使命を経営に取り入れていくようになった。人権、地球環境、利益のトリプルボトムラインに献身することが、企業が生き残れる条件になったのです。地球をより住みやすい場所にするために、社会的利益を増やすビジネスを創造し、目的意識と満足感に満ちた人生を歩むことが、ビジネスマンの理想となったのです。手っ取り早く言えばビジネスに「善意」の二文字が必要となった。

 

『ソーシャルビジネス入門』を読んでもらいたい。

「社会起業で稼ぐ」新しい働き方のルール 日経BP

ベン・コーエン/マル・ワーウィック=著 斎藤槙/赤羽誠=訳 

155p

セブンス・ジェネレーションには、核となる価値観が6つある。それは、ブランドに対する信頼感の醸成、「あっ!」と言わせるサービスの提供、社会的・環境的責任の推進、業務を通じたスタッフの人間的成長の機会と達成感の提供、コミュニティの質の向上、そして企業のリーダーシップにおけるお手本となること、すなわち同社が事業展開する市場において、社会変革の原動力になることである。セブンス・ジェネレーションは自らが信じる価値観を表明すること、そしてその価値観と一致しながらビジネスができているかどうかを確かめることに多くの時間を割いている。』

 

今までのソーシャル・エンタープライズのイメージで言うと、とにかく社会的なイノベーションがあればよい、という非営利的なものが中心だった。そこに企業と非営利組織のパートナーシップを結んだものがあった。しかし、今は上記のセブンス・ジェネレーションのような利益獲得と社会的目標を調和させるハイブリッド型が主流となっている。そこに、人類がもたらした環境破壊への反省が加わり、「クリーンな地球を次世代へ、社会環境を整備し、エネルギーの転換を図る」事業が、「優しさと、尊厳と、正義」によって行われる、ハイブリッド型ソーシャル・エンタープライズとなっていく。

 

映画「ザ・コーブ」が言わんとしたことは、人口3千数百人の小さな町・和歌山県太地町で行われている、全長20メートル弱の小型漁船十数隻、20数名で行われているイルカ追い込み漁が、ビジネスとして許されるのか?という問い、である。オバマが誕生した後だからこそ、この問いが生きた。単なるイルカが可哀相だという主張ではない。イルカがビジネスになっている、そのビジネスは「優しさと、尊厳と、正義」に貫かれているかと問いかけて、罰を与えられることを望んで作られた、巧妙なロジックで武装した映画である。クジラは環境保護の世界的シンボルであることも射程距離に入れた文化戦争といって良い。しかしこの戦争は、初めから日本の敗北は決まっている。映画の世界で、数々の映画祭という法廷で受賞という有罪判決を受けたが、日本側に敏腕な弁護士がいない。

 

太地町の追い込み漁師達は、降って湧いたような災難としか言いようのない、有罪判決に戸惑っている。しかし、かろうじて一人、気を吐いて、追い込み漁を正しく伝えている科学者がいる。

 

イルカやクジラの解剖作業を無形文化財に登録し保存すべきだ、と言い。「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されているが、これに追加登録をすることは考えられないだろうか、と言い。クジラ肉を松阪牛のようなブランドに育てたいと言う、剛の科学者がいるのです。

 

『イルカを食べちゃダメですか?』 光文社新書

科学者の追い込み漁体験記  関口雄祐著  が面白い。

 

映画の制作側のOPS(海洋保護協会)は「この映画は、太地町の漁師たちを攻撃するために撮影したのではない」と語っているが、関口氏によると・・・

 

202p

・・・映像の中のショッキングなシーンは、現実よりもリアル感がある。つまり、デジタル技術による映像処理は臨場感に欠かせないものだろう。たとえば、捕殺作業によって海面が赤く染まるシーンがある。この映像自体が10年近く前に撮影されたもののようだが、さらに「赤さ」を後処理しているのではないかと疑いたくなる。捕殺作業で流血するのは当然なのだが、現場は何頭ものイルカと人が泳ぎまわり、海底の砂を巻き上げ混濁した海水となる。そこへ血が流れ込んでも濁ったような赤さになるのであり、私が経験した限りでは映画で描かれた「鮮血」のような赤さにはならないのだ。

 

あえて、過去の、より残酷な補殺映像を持ち出して、CGで色付けをする。明らかに太地以外のイルカ漁の映像、そして撮影場所の確かめようのない映像を張り合わせている、過剰な演出は太地町の漁師たちを攻撃するためとしか、言いようがない。「日本人には知る権利がある。そして、映画で語られる事実について考えてもらいたい。ただそれだけだ」と制作側は言っているが、それは違う。「日本人自身がイルカ漁に罰を与えよ、でなければ日本人全体が共犯者である。」とこの映画は言っている。最後の交差点でTV画面を持って立っている、リック・オリバーの姿の意味は、行きかう人々の無関心が、この罪をのさばらせている「行動せよ、日本人」という、メッセージです。

 

イルカ漁は、法に従い、許可された鯨種を許可された範囲で捕獲していることは、反捕鯨団体にとって関係がない。反捕鯨は彼らにとって「正義」なのだ。

 

『これから「正義」の話をしよう』 早川書房

いまを生き延びるための哲学 マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳

というとても饒舌な本がある。

340p

市場は生産的活動を調整する有用な道具である。だが、社会制度を律する基準が市場によって変えられるのを望まないならば、われわれは市場の道徳的限界について公に論じる必要がある。

344p

道徳に関与する政治は、回避する政治よりも希望に満ちた理想であるだけではない。公正な社会の実現をより確実にする基盤でもあるのだ。

 

つまり、アメリカのエリートの多くは、イルカをアミューズメントパークで見世物にすることやイルカの肉を食うことが道徳的ではなく、日本人は世論によって政治的な決着を図るべきだ、と思っているということです。

 

イルカが自殺をしたり、見世物になったストレスで胃潰瘍になったり、子も妊娠したメスも無差別に追い込む漁や、水銀で汚染された肉は、「善」なのか、と問い詰めてきている。では、日本に投下された原子爆弾は善なのか、中東での戦争は善なのか。イルカの知能が高いから、人間の勝手なビジネスの道具にしてはいけないというのなら。彼らにとって、日本人やイスラムの民はイルカ以下だということになる。野生動物が世界共通の資産だというのならば、日本人やイスラムの民は野生動物以下ということになる。アングロサクソンの優生思想は、賢いイルカを殺してはいけないが、馬鹿な日本人やイスラムの民は無差別に殺してもよいということになっている。難癖をつけているわけではない。彼らの正義とは所詮そんなものだと言っているのです。

 

決められたルールの中で、ルールに従って行われている漁に難癖をつけているのは映画制作側だ。この映画はアメリカのソーシャルビジネスブームの提灯持ちをしている映画に過ぎない。

 

でなければ、もっと事実に忠実に、偽りなく映画が作られていたはずであり、民の生活も描かれていたはずだ。彼らはアメリカの先住民族にしてきたことを何の反省もしていない証拠が、この映画だと言える。彼らの正義は所詮、彼らだけの正義にしか過ぎない。この映画のルイ・シホヨス監督は「反日映画ではない」と言っているが、それはその通りだ。この映画は「行き過ぎた啓蒙主義による、理性の履き違い映画」である。環境保護思想を唯一絶対の神的存在としてとらえた人々にとって、海獣をも神とする多神教の自然と暮らす民の文化がわかるはずもない。

 

監督はこうも言っている。「私は伝統というものを理解していますが、イルカを殺すという伝統はどのレベルで考えても必要だとは思えません。」

イルカと暮らすという伝統を、イルカを殺すという伝統に作り替えた監督の伝統とは、「帝国主義による、少数民族への迫害」であるから、彼らは彼らの伝統に則った映画制作であったのです。

 

『イルカを食べちゃダメですか?』の188pを紹介したい。

『くじらの文化人類学』

「捕鯨者も自然の生態系の一部であるという考え方の存在は、捕鯨考たちが、捕鯨技術と鯨の繁殖、回遊、索餌行動に関する広い知識をもっていることを示している。つまり鯨と自然と人間の間に存在する親密な関係を熟知しているのである。これは単に海洋生物に関する『幼稚な』知識ではなく、何世紀もかけて学習された文化的知識であり、人類全体にとっても価値のあるものである。この生態系的知識は信仰によって強化されている。それは、『子鯨を連れた母鯨を捕獲しようとしたために』111人もの鯨捕りが死んだ太地の大遭難のような、海難事故の受け止め方とその原因帰属のとらえ方にも明瞭に表われている。この出来事は、今日捕鯨コミュニティーの世界観の中にしっかりと組み込まれている。われわれの考えでは、このような信念は、正当な土着の資源管理体制の一部とみなされるべきである」

 

映画は813日まで大阪 第七芸術劇場で上映されている。後、数日しかないが、見ることを勧めたい。そして『イルカを食べちゃダメですか?』は必ず読んでもらいたい。

 

posted by: 応援しよう東北!(雑華堂) 小嶋隆義 | 映画レビュー | 15:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |