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迷走日記 7月8日 走禅一如 5の1
JUGEMテーマ:ジョギング
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迷走日記 7月8日 走禅一如の可能性について その5

荘子の思想から考える 

 

 荘子(約2300年前)に料理人の御話があります。その御話の中にこのような言葉があります。

 

良包歳更刀(内篇 養生主)

 良包(りょうほう)は歳(とし)に刀(とう)を更(か)う。

 

料理人が牛をさばくのに、たいていの料理人は刃こぼれをさせて一月ほどで包丁を変える。腕の良い料理人でも一年に一度は包丁を変えますが、私の包丁は数千の牛を19年もさばいてきたにもかかわらず、いまだに使っている。それは刃先を動かすのにゆとりを持って、なおかつ細かいところに気を配り、無理な使い方をしないからです。

という件の中にある言葉です。

 

私は鳥やスッポンをさばくことはありますが、牛をさばいたことがないのでその難しさは分かりませんが、言わんとしていることはつかめます。私の包丁は河豚引きも骨切り包丁も20年近くは使っていますが、刃こぼれはありません。玉鋼の手打ちの包丁なので、大変に高価なこともあって大切に使っています。自分では天下の宝刀だと思っています。荘子の時代の包丁は切れ味の良いものだとは思えないので、「数千の牛を19年もさばいた」というのは、おそらく途方も無い数字なのだろうと思えます。

包丁にはそれぞれに癖があるので、長く使わないと使い勝手の好い自分のものにはなりません。どうしても反りが合わない包丁もあります。包丁の切れ味というのは、料理人の心に沿ったものなので、料理人にそれなりの心構えがないと、切れ味の鋭さは生まれません。料理は、はかりおさめるものですが、包丁は道理で仕事をします。無理に切ろうとしても包丁は言うことを聞きません。

 

私の鱧の仕事は料理人仲間から名人といわれていますが、そこには門外不出の秘伝があります。もう既にその秘伝を知るものは、私しか残っていないのですが、誰にも伝える気持ちはありません。教えても、技を習得する辛抱のできる者がいないからです。京都でも淡路でも骨を感じたら御代はいらないという店がありますが、秘伝を知らないので、やっぱり骨だらけです。2ミリに三つの骨切りが理想だといわれていますが、私は気合が入っているときは4つ入れます。

 

梅雨時期なのであまり使わない包丁には錆が浮いたりします。錆を砥ぎながら、もう自分の体は錆だらけなんだな、との思いが浮かんできます。大した地金でもないので、すっかりなまくら(鈍刀)になってしまっていることを日々痛感しています。包丁を使うように、自在には自分の体を動かすことが出来ません。しのぎを削る程の気力もなく、病気を克服したいとの抜き差しならない事情もあって、付け焼刃のジョギングをしていますが、トンチンカン(頓珍漢)なことになっているのではないかとの懸念もあります。

自分に焼きを入れてやろうと懸命に走ったら、7月1日につんのめって大怪我をしました。歳に太刀打ちは出来ない。立ち往生して気持もやさぐれていましたが、ようやく元の鞘に納まろうとしています。無理をしない、無理をしない、と言い聞かせています。

 

 刃物にまつわる言葉も多いのですが、食べ物にまつわる言葉はもっと多い。それは暮らしの中で、とても大切なものであるからでしょう。

 

朝も7時を過ぎて陽が高くなると暑い。中高年のジョギングは暑いときは無理をしない、というのが鉄則でしょう。風が涼しく感じても、曇っていても、気温が25度を超えていると、汗をかく量はかなり多くなります。

豆腐は煮れば締まるとも言いますが、中高年のトレーニングは煮崩れてしまわないように注意したい。のんびりと無理なく、風呂桶で大根を洗う(物事がゆるゆるしていること)ようでも良いのではないでしょうか。

走った後の沼地に沈むような倦怠感や、ジンジンと全身に漂う熱っぽい疲労感は辛い。青菜に塩のようにしおれてしまいます。ライバルに教えたくない対処法として水シャワーと葛根湯が症状を軽くしてくれます。夏場に頑張ったときに、足が炎症を起こして眠り難いときがありますが、解熱・鎮痛剤が効きます。ビタミンCやクエン酸飲料も有効です。

 一に養生、二に薬なので、先ずはオーバートレーニングにならないように養生が大切だと思います

私は血圧が高めなので一日に3回、血圧を測って記録しています。走った後に、あまりにしんどいときに血圧を測ると、高いほうが100程のときがあります。血圧の低下は中程度の脱水症なので、電解質と水分の補給を心がけて、少し横になります。血流量が減ると内臓機能の低下もあって疲労が抜けにくくなります。無理をすると豆腐にかすがいというような、無駄な努力になってしまいます。

電解質が失われると筋肉痛も残りやすい。集中力も落ちます。人参よく人を生かしよく人を殺す、という言葉もあり、健康によいと思っているジョギングも毒になることがあります。

脱水症とは水分と電解質が失われた状態のことです。水だけを補給しても電解質が失われていれば脱水症なのです。症状が進むと熱中症になります。体温の調節機能が働かなくなり、体温上昇、めまい、倦怠感、けいれん、意識障害が起こることもあります。

しかし、冷たいものばかりガブガブ飲んでいては体調を崩しかねない。夏は熱いものが腹の薬とも言うので、注意したい。

私が以前に熱中症になって、味噌を付けた(失敗する)ときには、炎天下なのに汗がぴたりと止まり、寒気がしました。目が回り、気分が悪くなり、船酔いしたような感じで倒れこみました。家まで2キロの距離を這うようにして帰りましたが、その辛さは並みのものではありませんでした。

よくなる時は土も味噌、悪くなる時は味噌も土。体調のよいときは何をしても効果がありますが、悪いときは何をしても悪いほうにしか行きません。体調が落ちているときに熱中症になりやすいので、冷静に体調を判断したい。いが栗も内から割れる(時期が来る)ので、あせってはいけない。熱ものに懲りて鱠を吹く(注意しすぎる)くらいでちょうど良いのかもしれない。

更に症状が重いものが熱射病で、死亡することもあります。

脱水症は、みそこしで水をすくう、という効果のないトレーニングになってしまいます。

走っているときに急に落ちるように走れなくなることがありますが、脱水が進んで身体がオーバーヒートしていることが原因であることが多いのです。他にも血中酸素濃度が低下していることもあります。鉄分、カルシュウム、マグネシュウム、カリュウム、等のミネラルの不足やビタミン不足に気をつけましょう。医食同源、食事の大切さは言うまでもないことでしょう。蛇の鮨でも食うぐらいに好き嫌いなく食べたい。食後の一睡は万病丸とも言い、食後の休息は栄養の吸収を促進させるのには有効です。

これもライバルには教えたくない情報ですが、ツールド・フランスに参加する自転車の選手は積極的に蜂蜜を摂っています。これはかなり有効だということを実感しています。しかし、蜂蜜の値段が高い。安物は効果が薄いと、蜂蜜屋が言っていることなので、手前味噌もあるのではと思わせてしまいます。採れる季節や花によっても効果が違うらしい。味噌に入れた塩はよそへ行かぬというので、高い蜂蜜に投資をして自分に戻ってくるのなら、少し奮発してみますか。私には蜂ごと食べるのが一番いいのかも知れないとも思えます。

とりもなおさず、中高年のジョギングは無理をしないことが大切だと思っています。無理をしないといっても、どの程度に無理をしないのかという匙加減が難しい。

 提灯で餅をつくような、いつまでたっても埒のあかないトレーニングもしたくはない。棄糧沈船という決死の覚悟での戦いも出来ない。中途半端で役に立たないことを、煮え湯に水を差すとも言いますが、中途半端ではない自らの適を探ることが難しい。コンニャクの裏表のようにならないメリハリも必要なのでしょうね。

 荘子に「自適其適」(内篇 大宗師)という、自分に本当に適したものを求めるという言葉があるように、先ずは自分に適したトレーニングとはどのようなものかを知ることが出来るようになるまで走ってみるしかないのでしょう。美味い不味いは塩加減ですね。塩加減をつかむ勘所を養いたい。

「桃栗三年柿八年、柚子は九年になりかかる、梅はすいとて十三年」というような時間的な余裕のない中高年には悩ましいところです。腹八分目に医者いらず、というたとえもあり、八分目のトレーニングが一粒万倍という、得るものの多いものとなるように思えます。

 無理なトレーニング計画は、沖のハマチのように必ず漁が出来るとは限らない。羊頭狗肉という内実が伴わない計画を立てていないだろうか。それは、ないものねだりのタコのあら汁になってはいないか。自分の実力に尾鰭をつけていないだろうか。徳利に味噌を詰めるような無理強いをしてはいないだろうか。塩を踏むような辛い計画は続かない。貪欲で無節操なことを出鱈目とも言います。絵に描かれた餅は、白豆腐の拍子木のように役には立たない。牡牛の角を定規にするような、出来るはずのない計画や、不味いものの煮え肥りという、ただ大きくなっただけで味の悪い計画になっていないことや、すりこ木で重箱を洗うような大雑把で行き届かないことも注意したい。腑に落ちるまで良く考えることが必要ですが、呑まない酒には酔わないので経験も必要。どんなことでも、とろろで麦飯を食べるようにスムーズにはいかない。

 大根には大根の味があり、えぐい渋いも味のうちなので、自分の持ち味を見つけたい。猫の手に餅のように不器用であっても、納豆も豆なら豆腐も豆、速くても遅くても気にしない。実入りが悪くても、実らないよりは好い。麦飯を炊くような、のろまな人であっても何が悪いのか。いつかは、漿を請うて酒を得たり、というような予想以上のことが起こるとも限らない。成すべきことを成すことを、湯を沸かして火を引くという。網にかかるのは雑魚ばかり、と腐らない。味噌塩(身のまわり)の世話をしてくれる人を大切にして、夢に牡丹餅(良い夢)を分かち合いたい。

 調子が上がってくればそのタイミングは逃さない。美味いものは宵に食え、食えるときにしっかりと平らげる。そのときまでロング・スロー・ジョギングを茶飯事にしながら、辛抱強く待つ。始めちょろちょろ、中ぱっぱ、赤子泣いてもふたは取らない。

 

荘子の養生主に「包丁(ほうてい)の言(げん)を聞きて、養生(ようせい)を得たり。」という言葉があります。それは、料理人の話を聞いて養生とは何かを知った惠王(紀元前370−319在位)の寓話「包丁解牛」の中にあります。

料理の名人には、その技術だけでは語れないものがある。「技よりも進めり」という、技よりも道を窮める者の話を聞いて、生命を養うことは自然の理に遵(したが)うことだと悟る、という御話です。包と言うのは料理人のことで、丁は人名です。包丁というのはここから来ています。

 

 NHKに100分de名著という番組があります。番組は時々に観ますが、テキストも読んでいます。本を読むガイドとして、とても素晴らしい企画だと思っています。番組で紹介される本の大半は読んでいますが、内容を忘れてかけている箇所もあるので、思い出すのに良い機会になっています。5月は荘子の放送でしたが、用事のある時間帯だったので残念ながら番組を見ることは出来ませんでしたが、テキストは読みました。

 

 そのテキストの著者、玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)さんが内編の養生主「包丁解牛」の寓話の内容を簡潔に現代文にされているので紹介したい。

 

・・・53p〜

・・・自在の境地に遊ぶ料理人庖丁のエピソードを、養生主篇から紹介しましょう。

庖丁は魏の恵王(文恵君 ぶんけいくん)のために牛を料理していました。その牛刀さばきは音楽的とも言えるほど見事なもので、「嘻(ああ)、善いかな」と感嘆する恵王に、庖丁は自分が求めているのは技ではなく道なのだと言って、次のように語ります。

「牛の解体をしはじめた時、目に映るのは牛ばかり(どこから手をつけたらいいのか分かりません)でしたが、三年経つともう牛の全体は目につかなくなりました。近頃では、どうやら精神で牛に向き合っているらしく、目で見ているのではありません。感覚器官による知覚のはたらきは止み、精神の自然な活動だけが行なわれているのです。自然の筋目(天理)に従うと、牛刀は大きな隙間に入り、大きな空洞に沿って走り、牛の体の必然に従って進みます。牛刀が靭帯(じんたい)や腱(けん)にぶつかることもありませんし、大きな骨にぶつかることは尚更ありません」

 さらに庖丁は、自分の牛刀は刃こぼれもせず、もう十九年も長保ちしていると告げます。道を求め続けた庖丁には、刃先の厚みより遥かに広く、肉と骨の隙間が見える。だから刃を遊ばせるほどの余裕があるし、牛刀を動かすのもわずかで済むというのです。・・・

・・・

 

 そして、玄侑宗久さんはこのような解説を付けておられます。

 

・・・54p

・・・庖丁は、感覚ではなく心で牛と向き合っている。そして牛刀は、自然の筋目に従って動いている。この時、庖丁自身の「私」というものはなくなっています。つまり、無意識である時にこそ、牛を扱う方法が最もよく分かっているわけです。

・・・中略・・・

 無意識になるための方法は、反復練習しかありません。どんな行為も、それを何度も繰り返すことで無意識にできるようになります。ですから、茶道や華道など「道」のつくものには反復練習がつきものなのです。要するに、理屈は忘れる。忘れた時に、身に付く。逆に言えば、身に付いたら頭に置いておく必要がないので忘れるわけです。忘れることが、本当に分かるということなのです。

・・・

 

 料理を割烹とも言います。「割」は包丁の技のことで、「烹」は煮るという調理のことです。ですから、包丁の技と調理という程好さ、「中庸の道」をもって料理というのです。日野原重明先生は私の仕事を料理の技・アートと言ってくださいましたが、技は究めるとアートになります。私はアートというより、芸道という言葉の方がしっくりと馴染む言葉のように思えます。料理が芸道の域にあれば、マーケティングとは無縁の世界になります。

 

 私はプロの料理人の仕事には3つの大切なことがあると思っています。

人の脳は四つの傾向を持ち合わせています。新しいものを好む新奇探索性、リスクを避ける損害回避性、評価を求める報酬依存性、こだわるという固執性。

 この脳の傾向を把握した上で、料理人は提供する料理にも気を配らなければならない。

 

一つ目は、少し新しいこと。(新奇探索性)

新しさは、プロの料理のエンターテイメント性にとってとても重要な要素です。楽しみ、気分転換、気晴らし、は目新しいものとの相性が良い。遊びやレジャーは非日常の新しいものへの冒険的な期待感なしには退屈なものとなります。しかし、新し過ぎてもいけない。新しいが、リスクを感じさせない安定感が必要となります。それはゆとりにある。ゆとりが感じられる範囲内での新しさ、食べる方に挑むような新しさではなく、小さな驚きの後に息抜きが出来る優しい驚きです。アッと思った後に、ホッとする余裕を感じさせるものなんですね。

 二つ目は、アイデンテティー。(損害回避性、固執性)

 どういうわけでその料理になったのか、ということです。季節のものであったり、地域性であったり、歴史的背景であったりします。無農薬の野菜だとか、こだわりの素材は食べる方に安心感を与えます。理解が出来ないものにはリスクを感じるのが普通です。相当の理由があれば納得できる。たとえば、詩的感性を感じさせる季節感は納得できますが、変な創作料理は料理人の自己満足だとしか受け取られない、ということです。民藝のような素朴さを旨く表現したものには哲学を感じたり、地域の文化的背景を感じさせる工芸的な美味さもあります。料理人は古いところをくぐってこなければ、そのアイデンテティーの表現の仕方は分からないでしょう。口先や舌先で味わう料理ではなく、心に届くものでありたい。

 三つ目は、真心・誠意。(報酬依存性)

 最近は「おもてなし」という言葉が使われていますが、真心・誠意があってのおもてなしだと思います。裏も表もない真心とは何か?

荘子の内篇・逍遙遊(しょうようゆう)に「至人無己」、至人(しじん)に己(おの)れなし、との言葉があります。よくできた人には私心がないことを言います。欲得で動くようでは、真心があるとは言えません。真心は誠意から生まれます。嘘偽りのないことを誠意というので、裏表のない「おもてなし」とは誠心誠意を尽くすことで、「おもてなし」で利益を得ようとすることではありません。私心なく相手のことを思い遣って、喜んでいただいてこそ、その報酬が得られると考えるべきでしょう。欲望はきりがないので「足るを知る」ことも必要でしょう。

人は報酬を求めて行動しますが、報酬とは金銭だけのものではありません。労働への満足感や幸福感も報酬です。したがって、真心のある人とは、自分自身への満足感や幸福感という報酬のあるべき姿をも知る、自らへの誠意を持つ人でもあります。

 

荘子の内篇・大宗師(だいそうし)に、

「有眞人而後有眞知」

真人(しんじん)あって、而(しか)る後(のち)に真知(しんち)あり、とあります。

 真人とは至人と同じで、ありのままの真実から離れない人を言います。ありのままの真実とは無為自然のことです。

 「喜怒通四時」喜怒(きど)、四時(しじ)に通ず。

喜怒哀楽というものは四季のようなもので、春には春の暖かさがあり、秋には秋の涼しさがある。無為自然とは難しく考える必要はない。このようなものです。

 不自然な作為を持たない。このことを知る真人の心を真心というのではないでしょうか。「今だけ、ここだけ、あなただけ」という「おもてなし」は「うらだけ」のような気もしてきます。

 

 写真は鱧のお造りです。松皮、一枚落とし、油洗いとなっています。







posted by: 応援しよう東北!(雑華堂) 小嶋隆義 | 迷走日記 | 07:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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