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迷走日記 6月13日 走禅一如 4の5
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迷走日記 6月13日 走禅一如の可能性について その4

老荘の思想から考える 

 

 走っているときに転倒して手足に打撲と傷を負いました。去年の9月に走り始めてから4度目の転倒です。毎回、怪我をして血を流しています。昔、走っていたときに転倒して怪我をしたという記憶はないので、やはり脳梗塞による運動障害に原因があるように思います。高齢の母に「年だから気をつけなさい」と言われるのが、情けない感じに拍車をかけます。疲れが抜けない、いつもどこかの関節や筋肉が痛い、その上に足が縺れるとなれば情けなくなるのも無理はない。

 

傷の手当をしながら、自分をもう少し冷静に見てみよう。無理をしすぎているのではないのだろうか、と思えてきます。しかし、よく考えてみると「自分を冷静に見る」という、自分で自分を見ることが本当に出来るのだろうか。自分を見ているのは自分で、その自分を見るというのは見ているような気になっているだけのことなのでしょう。人は自分を特別なものだと思っている。それが個性というものなのですが、そのような偏向がある限り、自分で自分を見ることは難しい。

 

人の意識というものは、人が言葉を使うようになってからのもので、せいぜい10万年ほどしかたっていない。人は意識化されたものより、言葉にならない無意識の領域の方が圧倒的に大きい。その、無意識の領域にまで踏み込まない限り、「自分を見る」ということは出来ない。

 無意識と意識を繋ぐものは「直観」というものです。芸術も宗教も哲学も、直観という縦糸と意識という横糸を織ったもので、そのバランスが重要なのです。科学もスポーツも然り、直観に優れたものが結果を残しています。

 

無意識の中にまで深くはいり込める者に直観は鍛えられる。考えるという意識の世界だけでは掴めない物がある。ではどうやって無意識の世界へ入っていくのか?「無心」に取り組むしかない。自分を忘れるほどに一生懸命に取り組むことを「無心」といいます。「無邪気」や「虫になる」という言葉もあります。

 禅をしているから無心になれるわけではない。無心に禅に取り組んでいるから無心になれるのです。

  

 自分と自分を見るもう一人の自分には「距離感」というものがあります。

 

山登りの面白さの一つに展望があります。登っていくにしたがって人々の暮らしから離れていく。少し登ると町が見渡せる。もう少し登ると町が小さくなり、町が雲の下に消えていく。もう少し登るとそこには山の自然しかなく、天空の風が出迎えてくれる。山頂から見渡せる山々の何重にも重なる稜線を眺めていると、それを観ている自分が見える。

 雪山を一人で縦走していると、何度も死ぬかも知れないという状況に遭遇しますが、何とかその日を乗り越えてテントの中で風に煽られる音を聞きながら眠っていると、寝袋の中で自分が赤子になっているような気がしたことがあります。

 登山家のラインホルト・メスナー(人類史上初の8千m峰全14座完全登頂(無酸素)を成し遂げたことで知られる)は龍村仁監督の地球交響曲第一番で「自分がガラスのように透明になる」というようなことを言っていたと思うのですが、この感覚は分かります。これは過酷な単独行を経験したものに共通の超感覚的な体験だとも思います。

麓から、歩きながら無我夢中で大きく山全体を感じるようにします。地図や時計では測れない、位置感覚や時間があるからです。自分の能力を計算に入れた地図や時計を身体に持っていないと、いざというときには無力なものです。単独行は自分以外に頼るものがないから、触角が鋭くなります。歩き続けて、歩き続けて、自分の触角で山全体が感じられる頃には自分が消えているときがあります。多分、虫に近づいているのだと思います。

 直観が鈍い人の特徴は知識や情報に執着する人です。知識や情報に惑わされるのでしょう。

 

 私は虫のように感じることを、「直下に観る」という表現を使います。山に棲む動物は全てを直下に観ています。研ぎ澄まされた感覚の直ぐ下に行動がある。その行動はいつも自然の理に適っている。究極の無為自然というものです。

 

自分はもう死んでいるのに違いないと思いながら歩いていることもありました。その時は感覚が麻痺していたのですね。

 駄目なときは心から落ちる。頑張るというチャチな言葉は何の役にも立たない。命と心を繋ぐ一本のロープは簡単に強いものにはならない。何度も透明になって死を覗いた者のロープには不思議な弾力がある。しなやかで柔軟なもので、どんな結び方にも即応できます。

 

 「自分を冷静に見る」ということを別の言葉で言うと、「自分から距離をおいてみる」ということになるでしょう。そうすると、話がより具体的になる。どれぐらい冷静に、と考えても冷静を計る尺度がない。距離を置くとなるとどれ位の距離を置いて、ということになると、遠近が出来る。展望を楽しむ自分、赤子に帰る自分、透明になる自分、山全体を感じる自分、自然に溶け込む自分、死を覗いた自分、それぞれに微妙に違う距離感があります。

 

 元日本山岳会会長でもあった今西錦司先生は縮尺度の法則ということを言われています。

“自然学の提唱”(講談社学術文庫)

・・・112p〜

・・・縮尺度の法則というものがありまして、これはこの四十九年に出しました『生物社会の論理』という本に書いております。かいつまんで申しますと一枚の地図に何も彼も書込むことは出来ない。二万五千とかもっと一万とかいうふうな地図であったら割合詳しいところまで書込めるけれども、二百万分の一の地図になったら川でも一本線か入るだけであってですね、とても細かいことは記入出来ない。それと同じで個体差は誰でも適当の所から見たら見えるけれども、種社会になるとかっ少し縮尺度を小さくしなければ見えない。まして生物全体社会というのはちょっと手に負えない。地球全体を見渡すということになるから。

・・・

 

 種の個体と種社会と生物全体社会は縮尺度が違うということですが、縮尺度の違いで見えるものも違うのですね。

 

 例えば老荘と孔子の違いを修養法で観てみよう。

“中国哲学”宇野哲人著(講談社学術文庫)

・・・老荘の修養法

220p・・・絶対無差別の域に入る。之を名づけて坐忘(ざぼう)という。何をか坐忘という。曰く、「肢体を堕(こぼ)ち、聡明を黜(しりぞ)け、形を離れ知を去り、大通に同じ、此を坐忘という」と。肢体を堕つとは形を離るること、即ち肉体を忘るることであり、聡明を黜くとは知を去ること、即ち無知無欲となることであり、大通とは即ち万物一体、生死一如、是非得喪を同一視することである。

 要するに、老荘の修養法を一言にしていえば、喪我ということに帰着する。小さい自我というものがなければ、必ずよく天地自然の大道に法って、無為自然となることが出来るであろう。

・・・孔子の修養法

221p・・・「博く文を学び、之を約するに礼を以てする」という語は、『論語』の中に孔子の語として二ヵ所に見えて居る。孔門第一の高弟たる顔回も、「夫子循々然として善く人を誘う、我を博むるに文を以てし、我を約するに礼を以てす」といっている所から考えて、孔子の修養法は博文、約礼の二法であったと推定する。

222p・・・有子曰く、「礼は和を用(もっ)て貴しと為す」と。孔子の如きは荘敬にして礼を守ると共に、「申々(しんしん)たり夭々(ようよう)たり」で、決して窮屈でなかった。有子の言はよく孔子の意を得たものといえる。而して和ということは、即ち楽によって得らるるもので、礼と楽とは密接不離の関係を有するものである。

・・・

 

 「坐忘」という言葉や「和を用(もっ)て貴しと為す」という言葉が出てくるところにも注目したい。

 老荘の修養法と言っても、これは荘子の修養法です。老子は無為自然の道に生きることなので、修養自体が無為ではないので修養法はないことになります。生物的自然は体系的に完結したものに向っているので、その自己完結性にそっていれば、あえて人為を加えることもありません。自然の大きな流れに生きるのが老子の道となります。

 孔子の修養法と荘子の修養法は、その観点から縮尺度が違うことがわかります。孔子は「博文、約礼」という生活のコミュニティに沿った生態学的考察なので、住宅地図的だと言えます。荘子の修養法は絶対無差別の域に入ることなので、細かいことは捨て去るということになります。さしずめ広域道路地図といった感じでしょうか。老子と荘子は縮尺度が違います。老子は更に広域のステレオグラム(目の焦点を意図的に前後にずらして合わせることで立体的に見ることができる)のように思えます。

 地図(思想)のリアリティと現実のリアリリティにはどうしても差異が出てきます。その差を埋める考え方が孔子にも老荘にもあります。論語の「礼楽(れいがく)」の楽は音楽の楽だけではなく、心にも楽があり、人と人の関係にも楽があるということです。人の心の和を大切にすることで、形だけの礼ではないことを言っているのでしょう。

荘子は我執や妄念を去り、心を「遊」ばせることを説いています。そして老子は「愛以身爲天下」(十三章)、愛=徳をその根本としています。

 

思想と現実のつなぎ目には「楽」「遊」「愛」の柔らかなクッションがあります。

老子は愛=徳をこのように述べている箇所があります。

“老子”蜂谷邦夫訳注(岩波文庫)

・・・三十八章

上不、是以有。下不失、是以無。

上無爲、而無以爲。下爲之、而有以爲。

 ・・略・・

是以大丈夫處其厚、不居其薄。處其實、不居其華。故去彼取此。

 

上徳(じょうとく)は徳とせず、是(ここ)を以(もっ)て徳有り。下徳(かとく)は徳を失わず、是を以て徳無し。

上徳は為(な)すこと無くして、而(しか)も以て為すこと無し。下徳は為すこと無くして、而も以て為すこと有り。

 ・・略・・

是(ここ)を以て、大丈夫(だいじょうふ)は其(そ)の厚(あつ)きに処(お)りて、其の薄きに居(お)らず。其の実(じつ)に処(お)りて、其の華(か)に居らず。故に、彼(か)れを去(す)てて此(こ)れを取る。

 

高い徳を身につけた人は徳を意識していない。そういうわけで徳がある。低い徳を身につけた人は徳を失うまいとしている。そういうわけで徳がない。

 高い徳を身につけた人は世の中に働きかけるようなことはせず、しかも何の打算もない。低い徳を身につけた人は世の中に働きかけるようなことはしないが、しかし何か打算がある。

・・略・・

そういうわけでりっぱな男子は、道に即して純朴なところに身をおき、誠実さが欠けた薄っぺらなところには身をおかない。道に即して充実したところに身をおき、華やかなあだ花には身をおかない。だから、あちらの礼や、先を見通す知識を棄てて、こちらの道を取るのだ。

・・・

 

 上徳と下徳を述べていますが、徳のない人もいます。徳を愛と置き換えて読んでみてください。なお、老子の徳は貴ともイコールです。徳=愛=貴というのが老子の徳なのです。

 こちらの道を取る、と言っていますがどんな道なのでしょう。

・・・三十五章

漢文と読み下し文は省略します。

大いなる象(かたち)つまり道をしっかり守っていると、世の中の人々が心をよせるようになる。人々は心をよせ、道を守る者はその人々を損なうことはない。そこで、世の中は安らかで穏やかな状態になる。

 音楽とおいしい食べ物には旅人も足を止めるものである。だが、もとより道が語りかける言葉は、淡々として味がない。目を凝らしても見ることができず、耳を澄ましても聞くことができないが、しかしその働きは尽き果てることがない。

・・・

 

「淡々として味がない」と言っています。味気ないとは言っていません。食通でも有名な北大路魯山人(きたおうじ ろさんにん、と読むのが正しい。本人が濁らずに「に」と読んでほしいと言っているからです。)は、絶世の美食は「山に蕨」「海に河豚」だといっています。理由は味が無いからだとのことです。

 大いなる愛は淡々として味がないものなのかもしれません。

 

孔子と老荘を比較してみると、孔子は人間の行為を当為(まさになすべきこと)として意識化しようとして、荘子は前意識(意識と無意識の間にあって意識化の可能な領域)を拡大しようとし、老子は集合的無意識(ユングの言う、個人的な意識の領域を超えた、集団や民族、人類の深層に存在する先天的な元型)に踏み込もうとしているように思えます。

 

人間は言語によって意識を持ち、その意識によって社会を形成し、精神文化を育てています。しかし、人間の意識の歴史はまだ浅い。

“ダーウィンを超えて”今西錦司/吉本隆明 対談(中公文庫)

・・・23p

・・・人間が新たにつくりはじめた一つのシステム、それを人間生態系といってもええけれども、農耕の開始以後ある意味で人間は、自然のシステムに謀反して、人間のシステムというものに移っていったんです。

 いずれにしても自然のシステムは、三十二億年の進化史を背景にもった壮大な構築物であるから、これと比べたら、まだせいぜい一万年ぐらいしかたっていない人間のシステムには、いろいろな点で欠陥があってもやむをえない。

・・・

 

 しかし、その人間のシステムの欠陥を人間は修正できるのだろうか?環境考古学者が警告する、2040年頃から始まる地球的規模の気候変動期の大災害時代によって、強制的に修正を迫られるようになるのかも知れない。そのときは自然をよく知る、直観の優れたものだけが生き残るのかもしれません。

 

“自然学の展開”今西錦司著(講談社学術文庫)

・・・34p

川勝平太―――直観は無意識の世界から意識の世界へ人ってくると。

今西錦司―――自然というものは、中間存在で、無意識の世界と意識の世界と両方に重なっている。意識と無意識の中間とか、そういうどっちかに割り切ってしまわないとこら辺に、自然観というものがあんのや。この自然観というものは非常に深いとこに住んでますな。自分の体の中で言うたら、深いところは無意識と重なってんのや。表層のとこへ来れば意識です。

・・・

 

「自分を見る」というよりも、自然をよく見つめていると自分が自ずと見えてくる。そんなように思えます。考えすぎているんだな、ひらひらと舞っている蝶を観ていて、そう思えました。意識過剰によって意識と無意識のバランスを崩していたようです。

 「楽」や「遊」や「愛」を深いところで感じること。それは意識世界だけで割り切ってしまわない、大切なものは深いところで、「目を凝らしても見ることができず、耳を澄ましても聞くことができない」ものが重なり合ってできている。

 

・・・34p〜

川勝―――過去一万年ぐらいは、意識の世界の中に生きる人間が地球を支配してきたようにみえますが。

今西―――それはやね、地球上のごく一部分の文明人がそう思うてるだけであって、いまでも狩猟採取生活してる者もおる。そういうとこへ行ったら、やっぱり意識の世界は一部分で、無意識の世界が大部分です。

 だから、文明人を主体に考えるとか、あるいは都会人を主体に考える、東京人を主体に考える、そういう考え方で押していくと、えらい変なもんができるんです。インドの文明、それから中国でも孔子や孟子と違って老荘ですな、老荘の世界というのは、これ偉大なるものや。それ忘れとるね。偉大な文明が開けてるんです。それは意識文明と違いますよ。東西文明もバランスが崩れてんのや。日本なんか、何も西洋のまねせんでもええのに、西洋に一所懸命になってるわな。

・・・

 

 孔子の思想の継承者は系統的ですが、老子の思想を継ぐものは水平的です。荘子や禅の思想も横に広がっている。その広がりの中に、日本を代表する知の巨人の一人である今西錦司先生もおられる。

 1986年、80歳になられた今西先生は自然学についてこう言われています。

「自然学とはなんであるのか。それは自然を客観的に扱うことでなく、自然にたいして自己のうちに、自然の見方を確立することでなければならない。」

 もう少し老荘を読んでいきたいと思います。

荘子の思想から考えるに続きます。

 

写真は鱧の白子・真子、浮き袋、肝を使った料理です。







posted by: 応援しよう東北!(雑華堂) 小嶋隆義 | 迷走日記 | 13:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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