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迷走日記 6月3日 走禅一如 4の4
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迷走日記 6月3日 走禅一如の可能性について その4

老荘の思想から考える 

 

 公共経済学の本を読んでいて、これは学問なのだろうか?科学なのだろうか?と、ふと考えた。野口悠紀雄は「政府のさまざまな経済活動に共通する要素をとり出し、できる限り一般的な観点から分析する」分野として定義しています。「さまざまな」とは産業・農業・貿易・金融・都市・医療・環境等の政策を対象としているのです。公共部門の財政に関わる現象を主にミクロ経済学の方法で分析する学問なのですが、これでは経済学という科学なのか?学問なのかが判りにくい。財政学となれば、経済学的なアプローチだけではなく社会学・行政学・政治学・歴史学の学問体系によっても研究の対象となります。公共経済学の公共とは学問の対象となり、経済的分析は科学の対象となります。何故にこのような疑問が浮かんだのか?理由は簡単明瞭です。分析のための数式が複雑で頭を悩ませているからです。飽きてきたときに、好きではないから下らない疑問が浮上してくるというありがちなパターンです。

 公共経済学を学んでも空しいことが多い。私の住んでいる中規模の街を公共経済学的に分析してみると、非効率的な取り組みがあまりにも目立ちます。人口減少社会に持続可能な投資でないと将来世代の負担が増えるだけです。過剰投資の反動は大きい。このことを地方議員と話をしても、公共経済学を生きた政策として活用できるものが一人もいないという現状が空しい。もっとも空しいのは分析に必要な情報がガラクタばかりであることです。

公共経済学の行き着く先は再分配ですが、先進国と呼ばれる国の中で再分配後の格差が広がっているのは日本しかありません。理由が答えられますか?理由は複数ありますが、簡単なものばかりです。消費税の問題もあります。1億3千万人の中央集権は大きすぎて無駄の始末ができないことも原因の一つです。他にも多くの答えがあります。

日本では政府というと中央政府だけで地方政府というものがありません。地方分権の流れはありますが、諸外国に比べてその優位性が確保されているとはいえません。ティブーの理論というものがあります。ほとんどの公共財においてその便益の及ぶ範囲が地域的・空間的に限られているので、地域的な公共財供給の仕組みのもとでは、住民の「足による投票」の結果、公共財に対する選好が顕示されて効率的な供給が達成できるというものです。「地域のことは地域で決める」、大事なことだと思います。

 大阪で都構想に関する住民投票がありましたが、私としては残念な結果でした。今、地方に必要なのは、かつてなかった程の威力を持つ起爆剤と緻密な公共経済学的取り組みだと考えているからです。都構想という起爆剤が政争の具になったことが尚一層の悲哀を感じます。

 

老子にこんな言葉があります。

“老子”蜂谷邦夫訳注(岩波文庫)

・・・307p〜 第六十七章より

 

「我有三寶、持而保之。一曰慈、二曰儉、三曰不敢爲天下先。慈故能勇、儉故能廣、不敢爲天下先、故能成器長。」

 

我に三宝(さんぽう)あり、持(じ)して之(これ)を保(たも)つ。一に曰(いわ)く慈(じ)、二に曰く倹(けん)、三に曰く敢(あ)えて天下の先(せん)と為(な)らず、と。慈なり、故に能(よ)く勇(ゆう)なり。倹なり、故に能く広し。敢えて天下の先と為らず、故に能く器(き)の長となる。

 

わたしには三つの宝があり、しっかりと保持している。第一は慈悲、第二は倹約、第三は世の中の人々の先頭には立たない、ということである。慈悲深いから勇敢でありうるし、倹約であるから広くなりうるし、世の中の人々の先頭には立たないから万人の長になりうるのだ。

・・・

 

 公共経済学の前提にあるものは、慈悲の心、倹約の精神、公平平等であることです。

老子のこの言葉の前には小賢しいことを戒める言葉があり、後には慈悲が最も大切だというようなことが述べられています。

 

 学問と科学、科学には細分化と専門化があり、学問には全体化という大技もあります。

科学と学問は文化とよばれるものの範疇にあるものですが、文化とは今西進化論的に言うと人間の外付けの進化ということになります。

 “進化とはなにか”今西錦司著(講談社学術文庫)

・・・79p

・・・人間は、ある時期から以後、もう親ゆずりの身体を変えなくても、道具をつくることによって、これに代用さすことができるようになった。そういう人間のつくりだしたものをひっくるめて、われわれはこれを文化といっていますが、要するに人間というものは、そこのところが他の生物とひじょうにちがっているのでありまして、身体の外に自分の必要なものをつくって、それで人間は環境に適応してゆく。この文化による適応があったから、もうその身体を変える必要がなくなった。また変えるには時間が少し足りないのかもしれない。

・・・89p

・・・人類というものは、身体のつくりかえによって進化してゆくのではなくて、体の外に道具をつくり、機械をつくって、それによって、進化を遂げてゆく。だからそこまでくれば、もう生物の進化とは一応、その路線が違っているのです。生物進化のレールから、すでに別のレールにはいっているんですね。

 ひと口にいえば人類は文化によって進化してゆく。それにもかかわらずこの文化というもの自身が、人間がつくるものである以上、やはり進化の原理にしたがって、直進しているんです。そしてこの人間の誇る文化というものが、進化の結果、今日すでに一種の過適応におちいっているのではないか。というのは、たとえば熱核爆弾でありますが、それが保有量の競争ということになって、ソ連とアメリカの現在の保有量はですね、全人類を皆殺しにする量の七倍もの保有量になっているというが、これなんかやはり一種の過適応ですね。そんな必要は絶対にない。それにもかかわらずそういうところまで来ている。

・・・

 

 文化という人間の進化の過適応の最たるものは戦争だと思います。悲惨な戦いを目の当たりにした老子は、人間の知恵の浅はかさを見たのでしょう。「智慧出でて大偽あり」(十八章)、智慧の反面には大きな偽りを感じた老子は「学を絶てば憂えなし」(二十章)とまで言っている。

 

老子四十八章を読んでみよう。“老子”蜂谷邦夫訳注(岩波文庫)220p〜

・・・

爲學口益、爲道日損。損之又損、以至於無爲。無爲而無不爲。

取天下常以無事。及其有事、不足以取天下。

 

学(がく)を為(な)す者(もの)は日(ひ)に益(えき)し、道(みち)を為す者は日に損(そん)す。之(これ)を損し又(ま)た損し、以(もっ)て無為(むい)に至る。無為にして而(しか)も為さざる無し。

 天下を取るは、常に事(こと)無きを以(もっ)てす。其の事有るに及びては、以て天下を取るに足(た)らず。

 

学問を修める者は日々にいろいろな知識が増えていくが、道を修める者は日々にいろいろな欲望が減っていく。欲望を減らし、さらに減らして、何事も為さないところまで行きつく。何事も為さないでいて、しかもすべてのことを為している。

 天下を統治するには、いつでも何事も為さないようにする。なにか事を構えるのは、天下を統治するには不十分である。

・・・

 

 人間の進化の過適応には、人間の欲望を減らしていくしかないと私にも思えます。

老子の時代は自然村が諸々の国に吸収されていった時代でした。「小国寡民」(八十章)、国が小さく人民も少ない、という理想を老子は語っています。国という暴力装置で有事にあたるのではなく、文化による棲み分けが自然な国の姿であるのでしょう。

「大国は下流なり」(六十一章)・・・大国は、川で言えば下流である。細流、つまり小国が集まって大をなしている。国々を統帥する大国としては、強大さをほこらず、他国の下流にいて小国の流れ入るように心がけることが必要である。・・・諸橋轍次“中国古典名言事典”(講談社学術文庫)より。

 

国を今西進化論で語ればこうなります。

“自然学の展開”今西錦司(講談社学術文庫)

・・・107p

・・・種社会の完結性といい、また独立性といっても、それはそれ自体が気ままに、他のもろもろの種社会と無関係に、獲得した完結性でも独立性でもなくて、むしろ他のもろもろの種社会とともに、生物全体社会を構成し、その堅実な部分社会であらんがために発達さした完結性でもあり、独立性でもある、ということがいっておきたかったからである。多少観念的な表現に流れているきらいはあるけれども、つまり種社会を生物全体社会の部分社会とみる以上、全体にたいする部分の位置づけということも、進化の過程でおのずからきまってこないわけにはゆかないから、全体をはずれて、ある種社会だけが独走的に変化し、進化することは許されないはずである、ということである。

・・・

 生物全体社会を国際社会と置き換えてみよう。

国際社会において、諸国家の完結性と独立性は、それらの国々が堅実な国際社会の一員であらんがために発達した完結性と独立性ということになる。ある国だけが独走的に変化することは許されない。自然の道も国際社会の道も変わることはない。大国の欲望が諸民族の文化による棲み分けのバランスを崩してはならない。

 

 老子は愚民政策だといわれるが、はたしてそうだろうか?出所は第六十五章からです。よく読んでみよう。

“老子”蜂谷邦夫訳注(岩波文庫)298p〜

・・・

古之善爲道者、非以明民、將以愚之。

民之難治、以其智多。故以智治國、國之賊。不以智治國、國之含福。

知此兩者、亦稽式。常知稽式、是謂玄徳。玄徳深矣、遠矣、與物反矣、然後乃至大順。

 

古(いにしえ)の善(よ)く道を為(な)す者は、以(もっ)て民を明らかにするに非(あら)ず、将(まさ)に以て之(これ)を愚(ぐ)にせんとす。

 民の治め難(がた)きは、其の智多きを以てなり。故に智を以て国を治むるは、国の賊(ぞく)なり、智を以て国を治めざるは、国の福(ふく)なり。

 此(こ)の両者を知るは亦(すなわ)ち稽式(けいしき)なり。常(つね)に稽式を知る、是(こ)れを玄徳(げんとく)と謂(い)う。玄徳は深し、遠し、物(もの)と反(はん)す。然(しか)る後(のち)、乃(すなわ)ち大順(たいじゅん)に至(いた)る。

 

むかしの、よく道を修めた者は、人民を聡明にしたのではなく、愚(おろ)かにしようとしたのだ。

 人民が治めにくいのは、彼らに知恵があるからである。だから、知恵によって国を治めれば国が損なわれ、知恵によらないで国を治めれば国が豊かになる。

 この二つのことを弁(わきま)えることは、国を治める法則である。いつでもこの法則を弁えていることを玄徳(げんとく)−奥深い徳というのだ。玄徳は、まことに奥深く、まことに遠大であり、人々とともに真なる愚(ぐ)に返っていく。そうして後(のち)、はじめて大いなる順応にいたるのである。

・・・

 

 私たち庶民は暮らしに一生懸命で、政治に興味を持つことは余程の理由があるときです。何故にこんなに暮し難いのだろう?等の理由があると政治に感心が出てくる。暮しやすい世の中なら特に政治に興味を持つことはない。政治が人民を騙そうとすれば、人民は騙されまいと思って賢くなる。庶民の幸福とは今も昔も変らない。玄徳とまでは行かなくても、万民が特に不満を持たない政治が行き渡ることを望んでいます。ここでの「愚」とは民衆の自然で素朴な本性のことを言っているのです。道を修めたものが国を治めたならば、人民のこの本性を裏切ることはない。庶民が健康で心穏やかに安心して暮せることを大順と言うのでしょう。政治に知恵が必要なときは、政治に企みがあるときではないだろうか。というように私には読めました。

 

 老子の政治論を読んでいると、欲望渦巻く人間社会の政治の難しさをひしひしと感じます。政治という文化にも進化の過適応が見られます。今や、政治に正道なく、政治家に聖人はいない。老子を読む人がやりきれないメランコリーを感じるのも無理はない。

 

「其政悶悶、其民淳淳。其政察察、其民缺缺。」(五十八章)

政治がおおらかで寛容であれば、人民は純朴である。政治が細かなところまで立ち入ると、人民は狡猾になる。

政治が察察(さつさつ)として、人民が缺缺(欠欠 けつけつ)とするイタチごっこの泥仕合の始末を誰が?何時?どのように?つけるのか。悶悶(もんもん)として淳淳(じゅんじゅん)となる政治と人民の関係は既に幻となっているのだろうか。

この関係は卵が先か?鶏が先か?というようなものですが、やはり政治家や官僚が人民と政治の縺れた糸を少しずつ解していくしかない。

 

五十八章はこう締めくくる。「是以聖人方而不割、廉而不劌、直面不肆、光面不耀。」

 聖人は、方正(行いや心の持ち方の正しいこと)であっても、その角で人を傷つけない。切れ味鋭くても、人を刺さない。真っ直ぐであっても、押し通さない。光っていても、人の目をくらますことはない。

 政治家や官僚に聖人になっていただくしかないようです。すると、彼等を育てる今の教育のあり方が問われることになります。学を捨てるとまでは行かなくても、学とは何かを考え直す機会が必要であることは間違いがない。政治家や官僚には独善的で保身の術としての理論に囚われていないだろうか、くらいは常に反省してもらいたい。

 ここは皆さんにも老子を読んで考えてもらいたいとおもいます。

 

今日のブログは第四十九章を紹介することで終わります。

“老子”蜂谷邦夫訳注(岩波文庫)を読まれることをおすすめします。

・・・223p〜

聖人無常心、以百姓心爲心。

善者吾善之、不善者吾亦善之。善。

信者吾信之、不信者吾亦信之。徳信。

聖人在天下歙歙、爲天下渾其心。百姓皆注其耳目、聖人皆孩之。

 

聖人は常(つね)に無心(むしん)にして、百姓(ひゃくしょう)の心(こころ)を以(もっ)て心と為(な)す。

善なる者は吾(わ)れ之(これ)を善(よ)しとし、不善なる者も吾れ亦(ま)た之を善しとす。徳は善なり。

信なる者は吾れ之を信とし、不信なる者も吾れ亦た之を信とす。徳は信なり。

聖人の天下に在るや、歙歙焉(きゅうきゅうえん)として、天下の為(ため)に其の心を渾(こん)ず。百姓は皆、其の耳目(じもく)を注(そそ)ぐも、聖人は皆、之(これ)を孩(がい)にす。

 

聖人は、いつでも無心であり、万民の心を自分の心としている。

 善良な者については、わたしも善良とし、善良でない者についてもまた、わたしは善良とする。こうして万民の徳は善良なものとなる。

 誠実な者については、わたしも誠実であるとし、誠実でない者についてもまた、わたしは誠実であるとする。こうして万民の徳は誠実なものとなる。

 聖人が天下にのぞむときは、心おだやかにこだわりを持たず、万民のために自分の心から好悪の気持ちをなくしてしまう。万民は、みなその聡明さをはたらかせているが、聖人は、万民をすべて赤子のようにしてしまう。

・・・

 「百姓」とは人民一般のこと。「孩」とは赤子の笑い声のこと。

垢紡海

 

写真は鱧料理です。1は一枚落としのお造り。2は山葵焼き。3は五目餡かけです。


 





posted by: 応援しよう東北!(雑華堂) 小嶋隆義 | 迷走日記 | 15:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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