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迷走日記 5月13日 走禅一如 4の2
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迷走日記 5月13日 走禅一如の可能性について その4

老荘の思想から考える 

 

 中高年のトレーニングの基本はスロージョギングです。LSD(ロング・スロー・ディスタンス)は医師でありコーチでもあったエルンスト・ファン・アーケン(Ernst van Aaken19101984)が持久力トレーニングの方法として確立したものです。

 

思い起こせば、友達同士で走る賭けをして10キロのマラソン大会に出場したことが走るきっかけとなりました。一分が千円だったのでそれなりに一生懸命に走りました。毎日酒浸り生活の中年でしたが51分で走り、友達との差は大きなものになりませんでした。皆のかけ金はその日の打上げの食事代になりました。不純な動機からですが走ることへの興味は深まりました。その後に書店で何気なく手にした佐々木功さんの“ゆっくり走れば速くなる”やアーサー・リディヤードの“ランニング・バイブル”は大きな驚きをもって読みました。しばらくは走ることに没頭していましたが、疲労骨折等の大きな故障を繰り返しているうちに、ランニングからは遠ざかりました。今はその反省に立って故障をしないことを第一に考えています。長いブランクからの再出発となったのです。

 

 ゆっくり走ればこんな身体機能への効果があるようです。

     循環器系機能の向上

     体温調節の機能の向上

・ 運動系の神経のみならず自律神経機能の改善

・ 毛細血管密度の向上

・ ミオグロビンやミトコンドリアの増大

・ 遊離脂肪酸使用率の向上

・ グリコーゲン貯蔵量の増大を促進

     骨格筋の酸化容量の増大することで、骨格筋の加齢に対する減少を抑制

・ 有酸素摂取量と最大酸素摂取量を向上

 中高年にとって最も気になるのは『最大酸素摂取量』です。身体的な衰えは筋力より、最大酸素摂取量の低下の方が大きいという医学的根拠があります。中高年は若い人と違って最大酸素摂取量の向上というよりも、出来るだけ低下を食い止めるというトレーニングが必要となります。また、老化はあらゆる故障を伴います。速く走ろうとすればするほど取り返しのつかない故障となったりもします。

 

 ロング・スロー・ディスタンスのスローといえばどの程度の速度をスローというのか?それは走る人の力量次第だと考えられます。自分でゆっくり走ってみて、このスピードだと毎日でも無理なく走れそうだ、と思える程度が自然なのではないでしょうか。

 私は、どれぐらいの距離を走ろうというような事前のトレーニング計画は作らない。その日その日の走り始めて判る体調に合わせます。無理はしない。疲れているときは直ぐに止める。走れるときは走る。自分の体と相談しながら、その日のトレーニングを行うのが良いと考えています。とりあえず外へ出て今日もボチボチ行こうか、という感じで始めます。自分の体とじっくり相談しながらなので、音楽や英会話を聴いたりしながらでは身体との相談に支障をきたします。練習仲間は作らない。黙々と自分を見つめて走るのが私流です。走っている間は一言も発しない、挨拶は手を少し上げるだけ、自分の体と徹底的に向き合うことを鉄則としています。

 

アーサー・リディヤードによれば「快適に速く」というのが基礎トレーニングには有効なようです。では、どの程度を快適というのだろう?自分の体に聞いて見なければ判らない。

私は一日に3時間程度のLSDを行っています。夜明け頃から、とりあえずゆっくり10キロを1時間ほどで走ってみてから、その日の練習内容を考えます。疲れていたり、身体のどこかに痛みがあるときはそのままゆっくりと3時間ほど走ります。呼吸と鼓動のリズムを感じ取りながら、リズム良く走ることに徹します。調子が上がってきた日にはリズムを崩さずに“快適に速く”を心がけて、調子が良い時にはリズムを崩さずに“出来るだけ速く”を心がけて、今は随分と調子が良いと感じた時はリズムを意識しながら“もっと速く、もっと速く”と追い込んでいきます。終始一貫してリズムを意識しています。走る距離は30キロから40キロ程度です。調子の良い日は少ないのでゆっくり走るだけで終わる日が殆どです。

最大酸素摂取量を上げていくにはどうすれば良いのか?

ご存知のように、運動には無酸素運動と有酸素運動があります。有酸素的エネルギーの産生過程に無酸素性代謝も参加してくる時点(無酸素性作業閾値)があります。その時点は中程度の運動負荷時に現れます(最大酸素摂取量【Vo2max】の55〜65%)。その運動を一時間以上継続すると最大酸素摂取量が増えるという効果が表れるようです。

Vo2max をあげていくには“自分にとっての、出来るだけ速く”という無酸素性作業閾値を少し超えたトレーニングも無理なく加えていく必要があります。

故障しないためにはリズムを大切にすること。自分の体と冷静に会話しながら、強引に走らない。その日の流れ次第というわけです。出来るだけ無理のない流れをイメージしています。

基本的には用事があってどうしても走れないという日以外は毎日走ります。「毎日でも無理なく走れる」、走れる人にとっては休養的トレーニング、それがLSDだと考えているからです。

理論より、自分が体感的に正しいと感じた取り組みが先にあります。トレーニングでの自分の体との対話はとても重要なことです。スポーツではほとんどの場合が理論は後からついてくるものです。理論に振り回されないことも心がけています。

鎌田實(かまたみのる)先生に“「がんばらない」けど「あきらめない」”という書籍がありますが、この「がんばらない」けど「あきらめない」という考え方が重用だと思います。どんな最新のトレーニング理論を取り入れても、中高年は急に速くなったりはしない。頑張っても怪我をするだけでしょう。気長に、のんびりやっていきましょう。

・・・・・

 

 禅の話をしているのに何故、老荘の思想が出てくるのか?と思われる方もおられるでしょう。それは老荘の思想が中国仏教に大きな影響を与えているからです。

 

仏教が中国に伝えられたのは漢時代(紀元前後)の西域との交流が活発化した頃です。

それ以前の周(紀元前1046年頃〜)から春秋戦国時代(紀元前770年に周が都を洛邑へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代)は青銅器時代から鉄器時代へ移行する時代です。鉄器農機の発達で牛耕も行われるようになり、大規模な灌漑工事も進んで農業生産力が飛躍的に向上しました。商工業者も富を築くようになり諸国に大都市が形成され、社会が大変動する時期になります。

 

新しい時代には新しい思想が生まれる。孔子・孟子・荀子などの儒家、老子・荘子の道家、墨子の墨家、管仲・韓非子の法家、農本思想の農家、公孫竜の名家、陰陽五行説の陰陽家、百科全書的な雑家、故事を語り伝える小説家、蘇秦の縦横家、軍略や政略の兵家等の諸子百家の登場した時代です。この時代の中国では知識層と民衆の間には大きな階級差がありました。諸侯が自国の強化発展のために知識層を求めたからです。

 

民衆の間には道教が広まっていました。道家と道教は何が違うのか? 民衆は現世利益を求める多神教であったのに対して、老荘は無神論的でした。

 道教のそのルーツは漢民族の土着的・伝統的宗教です。神仙方術による不老不死を究極の目的とします。道教は神との神秘的合一を目的としています。道教は老子の道の思想(万物の宗・天下の母)を神秘的に変容させたので、道教の中心概念の道(タオ)と老子の言う道とは思想上に大きな差があります。道教はタオによって宇宙と人生の真理を説き、更に陰陽五行や儒教や仏教の要素を吸収していくこととなり、多神教的諸宗混淆の宗教となったものです。道教側から老荘をみると道教の「肉体の不死」と老荘の「精神の不死」は同じものと見えたのでしょうが、老荘の「精神の不死」は思想上の事件であったと、私は考えています。(老子と荘子は思想上に少し違いがあります。老子と老荘と分けて書いてあるのはそのためです。)

 

 諸子百家の思想と民衆の現世利益を求める多神教の中国社会の中に仏教が伝来した。1世紀頃、初期仏教は「理解できないが、ありがたい神様に違いない」という多神教の神の一人として祀られた。4世紀の初め頃に知識層によって老荘思想と結びついて仏教は理解されるようになりました。

 

インドにおける仏教経典を中国語に翻訳することは大変な困難を伴ったと思われます。翻訳に正確さを求めることは不可能に近いことではなかったのではないでしょうか。自国での言語で最も近いものを当てはめても、別の意味を孕んでしまうこともあります。自国の言語の枠組みは思想の枠組みでもあった。当然のことながら、自国固有の思想信仰に即して仏教を解釈することになります。例えば「空」は「無」で理解された。老荘思想の概念や用語が仏教を解釈するのには近似するものが多く、当時の思想家はその接点で仏教の核心へ近づこうとしていった。それを格義仏教といいます。

 釈 道安(しゃくどうあん 314385)は中国仏教の基礎を築いた人です。道安は、仏典とは仏教本来の概念や用語によって解説されなければならないと言っています。その道安にいたっても「五失本、三不易」と、意訳を可とする失本と、原本に忠実でなければならない不易を主張しています。原本の形が変容しても仕方がないではないかという失本が5、原本を改変させてはいけないという不易が3、と変容しても仕方がないとする割合が多いことが気になります。

  

 中国で仏教が受容された理由には、他に大きな理由があった。

 森 三樹三郎(もりみきさぶろう 19091986)著“無為自然の思想 老荘と道教・仏教”(人文書院)を読んで、ハッ!としました。

 仏教がもたらした「輪廻説」「三世報応」の説に鍵があった。

・・・・・

89p〜

・・・「三世報応」の説に、強く心をひかれたかと申しますと、これは従来の「儒教的な人生観」に、一つの大きな欠陥があったのでありますが、この「三世報応」の説が、その欠陥を補うことに役立ったからであります。

 その「儒教的人生観の欠陥」と申しますのは、儒教はなるほど人間の「道徳的な要求」に答えるものでありますが、人間の「幸福に対する要求」には、はなはだ不十分にしか答えることができないからであります。たとえばよく引かれる例でありますが、孔子の門下で最高の弟子とされる顔回は、学問、修養にたいへん励んだにもかかわらず、一生、貧乏生活を続け、しかも三十数歳の短命で終っているのであります。

・・・略・・・

90p〜

・・・儒教では「死後の霊魂」などは信じないのでありますから、死ねばすべてが終りであります。結局、人生の幸・不幸は、すべて天命・運命としてあきらめるほかはないのでありまして、その意味ではたいへん救いがないことになります(つまり儒教は「道徳論」の教えであり、「幸福論」には冷淡でありました)。

 このような儒教の人生観に疑問をもった例は、すでに紀元前二世紀の前漢の司馬遷などが挙げられます。・・・

・・・略・・・

90p〜91p

・・・ところが、儒教にとっての難問が、仏教の「三世報応」説によれば、一挙に解決することができるのであります。たとえば先の顔回【略のところに顔回や司馬遷の例があげられています】が、生涯を不幸に終えだのは、彼が前世で犯した悪業の報いが現世に現れたものであり、そのかわり彼は現世で善業を積んだのであるから、来世にその報いとして幸福が得られるわけであります(北周の道安『二教諭』)。つまり儒教が幸福の問題を解決できなかったのは、もっぱら「現世」だけしか考えなかったためであり、仏教のように「三世」を考えれば、この問題は容易に解決することができるというのであります。このため六朝の士大夫の間では、「仏教は三世報応を説く教えである」という理解が広く行われ、これが常識となっていたと申してもよいのであります。

 ところで、このように「三世報応」の説を中心に据えると、どういう結果が現れるかと申しますと、それは「来世」に救いを求めることに重点をおくということであります。前世のことはどうすることもできませんから、この現世においてできる限りの善業を積み、その報いを来世に期待するという方向であります。

・・・・・

 なるほど、(儒教は「道徳論」の教えであり、「幸福論」には冷淡でありました)とは納得の高説です。今の仏教ブームも現代日本人の幸福度の低さが起因しているようにも思えます。また、大災害を目前にした無常観もあるのではないでしょうか。

 私は「輪廻説」や「三世報応」を受け入れることは出来ませんが、気持は分かるような気がします。この世で報われなかった努力が、せめて来世で報われてほしい。人情というものですね。

中国仏教はこのように受容されていくことになったのですが、老荘の影響のみならず、儒家や中国民族の太古からの天の信仰・霊魂不滅・先祖崇拝の文化的ルーツを持つ陰陽五行や道教等も取り入れてインド仏教とは趣の違うものとなったのです。仏教は中国で中国化し日本で日本化し、現代日本で商業化し、原形を留めないものになっています。仏教という種を考えたとき、種をどこまで品種改良しても種の域は出ませんが、商業仏教はその種の域の限界にまで来ていると思われます。

 

知識階層には禅、民衆には念仏として浸透することになった。思えば倫理や道徳や使命で縛られるよりも、禅や念仏で心を空にして自分を見つめ、自分が今、何をしなければならないのかを考えた方が人間的な幸福感を得やすいように思えます。

自分の幸せとは何だろう?ポンコツになった膵臓や腎臓であっても、走ることが出来ているだけで幸せなのかもしれない。

 

写真はこの日曜日に作ったお弁当です。



posted by: 応援しよう東北!(雑華堂) 小嶋隆義 | 迷走日記 | 17:21 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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