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迷走日記 4月30日 走禅一如 4−
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迷走日記 4月30日 走禅一如の可能性について その4

老荘の思想から考える 

 

 4月は1日にウイルス性胃腸炎に苦しめられました。1月からの疲れが溜まっていたのか、症状が強く出ました。高熱が出て、胃に激しい痙攣が起こり、吐くものに少し血が混ざった。二日ほどで熱は下がったものの、2週間程は胃痛が残ることとなりました。また、4月は雨の日も多く、思うようには走れなかった。一ヶ月の走行距離は778キロと低調なものとなり、ペースも上がらなかったが、4年前に脳梗塞で倒れて運動障害が残る中高年としては上出来ではないか、とも思えます。

 

調子が悪いときほど学ぶものは多い。かつて、水前寺清子が歌った三百六十五歩のマーチを思い出した。『しあわせは 歩いてこない だから歩いて ゆくんだね 一日一歩 三日で三歩 三歩進んで 二歩さがる 人生は ワン・ツー・パンチ ・・・』(星野哲郎 作詞)と続く。『三歩進んで 二歩さがる』と一歩前進となりますが、それほど上手く確実に前進できることはまれだと思います。むしろ、この一歩前進は絶好調の時だと思えます。

 

若いときに読んだレーニンの一歩前進二歩後退という書の組織論が頭に浮かんだ。一歩前進することで余儀なく強いられる後退がある。レーニンの場合は組織の分裂ですが、分裂することで自らの組織の目指すものがより明確になる。原則的な思想を貫くという方針がより強固なものとなる。

 

生物学的に、種社会の分裂は分離した種社会がそれぞれの独立した種社会として独自の道を歩み、長い間に違った種の枠組みを持つようになる。それを進化とよぶのです。生物学的に言うと、分裂は後退ではない。レーニンの組織論も結果的には後退ではない。どう捉えるかの主体の問題なのでしょう。生物の進化にも主体は存在します。

 

走るということは走るための脳と身体の組織論だとも思えます。私の4月における体調崩壊という二歩後退は、性急に結果を求めたが故の原則をはずしてしまった結果なのでしょう。この二歩後退を素直に受け入れて走れる体をじっくりと作ることに専念したい。当分、今よりもペースを落としてのんびりと走ることにします。その分、靴を重くしておこうと考えています。片方で40グラムを増量して、筋肉への負荷を少し高めておきたい。体重の1キロ程度はあまり問題になりませんが、靴の40グラムの差は大きい。10キロのランニングで2分は変ってきます。そして、来年の今頃には月間1000キロを無理なくコンスタントに走れる身体に仕上げていきたいと思っています。私は2時間半を切る女子選手の練習内容のデータを集めました。(中高年の男性の体力と女性選手の体力はほぼ同じだろうと思えます)。先ず、月間1000キロを走れる身体があって、それを基礎にした本格トレーニングが正攻法との結論を得て、自らの身体で実践してみたい。

・・・・・

 

 私が老荘の思想に出会うきっかけとなったのは、自然農法で知られる福岡正信さんとの出会いからです。

 今は亡き先代の丸天醤油の社長さんが、私の作った変り醤油を面白いと言われて播磨茶屋というシリーズを実験的に販売されました。土佐醤油や松前醤油の定番から、炒り醤油という割烹で使う醤油等を始めとして数十種類の醤油を作って御見せしました。そのうちの数種類を商品にされましたが、時代がまだついてきていない状況でした。その頃に社長さんが言われたのは、徹底的に野菜にこだわった店を作ってみてはどうだろうか、という提案でした。徹底的にこだわった野菜とは何か?辿り着いたのが福岡正信さんの自然農法でした。

 

 愛媛県伊予市で自然農法を実践する福岡さんはこう言われた。「人は自然を愛しているというが、本当は、自然を愛してるという自分を愛しているに過ぎない。本当の意味で自然を愛するということを現代人は失っている。そして、今、人はその自然から見捨てられようとしている。」

福岡さんの料理人への期待は小さくなかった。

 老子を読んでいると「聖人は常心なし。百姓の心をもって心と為す。」とあります。この百姓とは勿論、現代の農家ではない。

 福岡正信著“無 掘ー然農法”(春秋社)の序章にこう書かれています。

・・・6p

食糧を生産するというけれども、百姓が生命のある食物を生産するのではない。無から有を生む力をもつのは自然だけである。百姓は自然の営みを手伝うだけだ。近代農業は、肥料と農薬と機械という石油エネルギーで、自然食模造の死んだ合成食品を製造する加工業に堕落した。工業化社会の下請人夫に転落した百姓が、千手観音様でもむずかしい合成化学の農法で儲けようとするのだから、きりきり舞いをするのも当然だろう。

 農業の本来の在り方である自然農法は、無為自然――手も足も出さないダルマ農法である。八方破れに見えるが厳しい無手勝流で、土は土、草は草、虫のことは虫にまかす広大無辺・融通無礙の仏農法である。

 クモやカエルがごそごそしていて、大きな殿様バックがばたばた飛び立ち、田の真上の空にだけ赤トンボがいつも群がる。ウンカが大発生すれば、かならずクモの子が湧くほど発生する。この自然田は、まだ収量にばらつきが多いが、一平方メートル当たり300本の穂で、一穂に平均200粒の籾をつけ、10アール15俵どりの収穫をあげる。粟のように屹立する強剛な稲の穂波を見た人々は「こりゃ、まるでススキだ」と、その力強さ、多収量にびっくりするのである。

・・・

 自然農法とは何か?

 “わら一本の革命”(春秋社)に自然農法の四大原則が簡潔に記されています。

・・・48p〜49p

四大原則とは

 第一は、不耕起(無耕耘あるいは無中耕)です。

 田畑は耕さねばならぬものというのが、農耕の基本ですが、私は敢えて、自然農法では、不耕起を原則にしました。なぜなら大地は、耕さなくても、自然に耕されて、年々地力が増大していくものだとの確信をもつからです。即ち、わざわざ人間が機械で耕耘しなくても、植物の根や微生物や地中の動物の働きで、生物的、化学的耕耘が行われて、しかもその方が効果的であるからです。

 第二は、無肥料です。

 人間が自然を破壊し、放任すると、土地は年々やせていくし、また人間が下手な耕作をしたり、略奪農法をやると、当然土地はやせて、肥料を必要とする土壌になる。

 しかし本来の自然の土壌は、そこで動植物の生活循環が活発になればなるほど、肥沃化していくもので、作物は肥料で作るものだとの原則を捨て、土で作るもの、即ち無肥料栽培を原則とします。

 第三は、無農薬を原則とします。

 自然は常に完全なバランスをとっていて、人間が農薬を使わねばならないほどの病気とか害虫は発生しないものです。耕作法や施肥の不自然から病体の作物を作ったときのみ、自然が平衡を回復するための病虫害が発生し、消毒剤などが必要となるにすぎない。健全な作物を作ることに努力する方が賢明であることは言うまでもないでしょう。

 第四は、無除草ということです。

 草は生えるべくして生えている。雑草も発生する理由かあるということは、自然の中では、何かに役立っているのです。またいつまでも、同一種の草が、土地を占有するわけでもない、時がくれば必ず交替する。

 原則として、草は草にまかしてよいのだが、少なくとも、人為的に機械や農薬で、殲滅作戦をとったりはしないで、草は草で制する、緑肥等で制御する方法をとる。

・・・

 

 自然農法に異をとなえる人々の話も多く聞きましたが、その知識は中途半端なものであることがほとんどでした。実際には農協の資料でしか情報を得ていない方々が多い。農協には農協の論理があります。

 同書27pの一文を読んでみたい。

・・・

 先般も京大の飯沼先生と会って話したことですが、たとえば、千年前の農法というのは、田を鋤かなかった農法で、それが徳川時代になった三、四百年前頃から、田を鋤く浅耕農法が入ってきた。さらに西洋農法が入ってきて、深く耕す農法になってきたとしても、問題は未来で、私は次の時代は浅耕農法から不耕農法に還りますよ、と断言しました。

ところが、田を全く鋤かないと、これは一般には千年前の原始農法に見えるわけです。一見、昔の農法に還ったようにも見えますが、私のこの米麦連続の不耕起直播というのは、この数ヵ年の間に、各県の農事試験場とか大学あたりでとりあげて研究されてみると、一番近代的な省力な農法だということが実証されてきた。ということになれば、自分の農法は、近代科学を否定して、その反対の方向であるよりに見えて、実をいうと、近代農法の最先端の農法である、と言えなくもないんです。

 この自然農法が、全く科学否定の農法で、非科学的農法だというけれども、よく調べてみると、最も科学的な農法じゃないかと、びっくりして帰っていく大学の先生もいる。

 自分は科学を否定しますが、科学の批判にたえられるような農法、科学を指導する自然農法でなければいけない、ということも言っているわけなんです。

・・・

 

 自然農法が科学を指導するものでなければならない、ということは分かります。しかし、それよりも私は“無 掘ー然農法”(春秋社)に書かれている『農村のこころ』の一文が好きです。

 

・・・22p〜23p

ひっそりと木曽の峡谷に生きる百姓、南海の孤島で独り暮らす百姓、北国の雪深い僻地にしがみついて生きてきた百姓は、みな大自然の中に独立自給、孤高の生活を楽しんでいたと言えるのである。僻地に生れ、そして名も無く貧しく無言で死んでいった人々が、世間と隔絶した世界に居住して何の不平、不安もなかったのは、孤独に見えて孤独ではなかったからである。彼らは、大自然の一員であり、神(大自然)の側近として神の園を耕す喜びと誇りの日々があったからである。日出でて野に働き、日暮れて憩いのねぐらに帰る「日々是好日」の日々は、無限の一日であり、その一日は永遠の生命の中の一コマにすぎなかった。無為自然の生活の中に何ものにも侵されず、何ものも侵されない百姓の生き方があった。

・・・

 

 無為自然、「本当の意味で自然を愛するということ」とは無為であることであった。

無為とは何か?老子のあまりにも有名な言葉でその真髄を味わいたい。

・・・

上善は水の如し。水はよく万物を利し、しかも爭わず。衆人の悪むところに処る。故に道に幾し。

・・・

 無為とは水の流れのようなものです。ここで多くは語らない。

 

 「一本のわらは軽くて小さい。だが人々はこのわらの重さを知らない」福岡正信の言葉は重い。

 

 土手沿いの桜並木の下を走りながら、川の水の流れをしみじみと眺める4月でした。

 老荘の思想から考える 供△愨海。

 写真は“無 掘ー然農法”(春秋社)のカバーです。

posted by: 応援しよう東北!(雑華堂) 小嶋隆義 | 迷走日記 | 16:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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