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生きる意味の不況
 

『生きる意味』上田紀行著 を読む

岩波新書 2005120日 第1刷発行 

 2010325日 第21刷発行 長期にわたってよく売れている本である。

 

 私がこの本を購入するきっかけになったのは、この書の冒頭にこう書かれてあったからだ。

『私たちがいま直面しているのは「生きる意味の不況」である。』

私は「生きる意味の不況」、この言葉に強い衝撃を受けた。

経済的に不況であっても、生きる意味が不況であってはいけない。経済あり方は歴史を規定し、人は歴史的な存在ではあるが、人は経済の奴隷ではないだろう。そういう意味で、新しい奴隷解放の時代が始まっている、といえるかもしれない。資本主義の段階をいくつかに分けて考えると、資本の奴隷制から資本をブロックで占領する戦乱時代を向えているのかも知れない。資本主義の騎士団は新興貴族との領地の分捕り合戦という原初グローバリズムの陣取り地図を広げている。グローバリズムの近代はまだまだ遠いものなのだろう。成熟したグローバリズムを実現するには近世に至る戦乱と、近代に至る革命を経なければいけない。とてつもない多くの犠牲者が出るのだろう。少しでも犠牲者を少なくするには、資本主義を生きる人々の意識改革が必要だろう。

今の時代は「資本奴隷開放前夜」と言えるかも知れない。

 

本書には、ローカル資本主義に住む田舎者として、多くの思索のテーマを与えてもらった。

 

皆が「ある」と思い込んでいた旧態依然としたコミュニティーは、実は既に崩壊していた。と著者は述べている。

そして、著者はコミュニティーを再創造しなければならないと言っている。どのようなコミュニティーかと言えば、

166p それは「私たちの生きる意味を育むコミュニティー」である。「ワクワクすること」を発見し、他の人の「ワクワクすること」と刺激し合って、相乗的に実現していくようなコミュニティー。そして、「苦悩」が受けとめられ、深い実存的なコミュニケーションの中から自分の「生きる意味」を発見していけるようなコミュニティー。そうした「内的成長」をもたらすコミュニティーの再創造がいまこそ求められているのである。

 

 著者はこうも述べている。

165p〜 実は日本の伝統的な村はそんなに閉鎖的なものではなかったことには注意を払っておく必要がある。中世における日本の村はかなり自由度が高かったことが知られており、それが閉鎖性、排除性を強めていくのは江戸時代からのことだ。そして、その構造が徹底されたのは明治時代以降なのであり、実はその閉鎖性は「近代化」によって強まり、そこに天皇を中心とする国家への恭順のイデオロギーが加わることによって、さらに徹底されたものになっていった。

 第二次世界大戦の敗戦は、「異なる意味を生きる人」への配慮を基軸にする社会への転換の好機だったと言える。しかし、実際はその後の経済成長時代における破竹の「勝利」によって、誰もが右肩上がりを求めて生きるべきだという、同質的な「生きる意味」を疑わない社会が温存されてしまった。そして、その社会のあり方は、日本国内の異質なもの、固有の「生きる意味」を生きようとする人たちを抑圧し続けてきたのである。

 

14p〜 右肩上がりの時代の日本人の欲求の形、それは「他の人が欲しがるものをあなたも欲しがり

なさい」という欲求の形であった。命令形がきつく感じられるならば、「他の人が欲しがるものをあなたも欲しがっていればまずは安心だ」といった心性である。

 

15p そして私たちは、大量生産されたひとつひとつのモノにそんなに個性がなくても、喜んでそれらのモノを受け入れた。それは他の人が欲しがるものであり、その他の人が欲しがるものを私も手に入れたということは、私の豊かさを実感させるものだった。そしてそんな消費の形が、破竹の経済成長を支えていたのである。

 

17p 「自分が何を欲しているのか」よりも「他の人が何を欲しがっているのか」を自動的に考えてしまうような「欲求」のシステムを私たちはずっと生きてきた。しかし、それは実はひとりひとりにとっては楽な社会でもあったとも言える。なぜならそのような社会では「自分の頭」や「自分の感性」をほとんど使わなくてもいいからだ。いま社会で求められていそうな線を狙って生きていけばいい。自分は何か欲しいのか、自分にとっての人生の意味や幸福は何なのかなどという、私の「生きる意味」など突き詰める必要はなかったのである。

 そうやって、私たちの「生きる意味」を探求する力は失われていった。表面に現れている破竹の経済成長という社会レベルでの成功物語の裏側では、ひとりひとりの「生きる意味」を構築する力の弱体化という、個人レベルでの衰退が進行していたのである。

 

18p 私たちはバブル時代、何故あんな無茶苦茶な値段で土地を買ったのだろう?株を買いあさったのだろう?バブルが崩壊してみれば、私たちはその時代を一種の狂気ででもあったかのように思い返す。しかし、それはそれまでの日本社会の[欲求」のあり方の総決算であった。

 

23p 現在私たちに求められているのは、自分自身の「生きる意味」をいかに見出していくかである。これからの時代、私たちは自分の人生を支える意味、「生きる意味」を自分で創り上げていかねばならない。自分が何を求めて生きるのかという、自己の欲求のありかを発見しなければいけないのである。しかし、私たちはその課題の前で途方に暮れている。自分が一体何を求めているのかを探求する方法も知らないし、「生きる意味」を構築する訓練もなされていない。自分が何を求めているのかなど、自分が一番知っているはずではないかと言われそうだ。しかし、一番分かりそうな「自分」が何を求めているのかが私たちには分からないのだ。そして自分の「生きる意味」がどこにあるのかも。

 これまでの時代は、「生きる意味」も既製服のように、決まったものが与えられた時代だった。しかし、これからは違う。ひとりひとりが「生きる意味」を構築していく時代が到来した。「生きる意味」のオーダーメイドの時代なのである。

 

1章「生きる意味」の病で「ひとりひとりが「生きる意味」を構築していく時代が到来した。」と著者は述べ、第2章「かけがえのなさ」で、こう述べている。

 

47p〜 現代の日本において〈個〉の確立を疎外しているのは、実は前近代性だけではないのであって、〈個〉の確立を誘導しているように一見見える近代のパラダイムこそが、奇妙なことに〈個〉の自発性、〈個〉が〈個〉であることを疎外しているのである。

 つまり、そのシステムは日本の伝統的な「世間体」や「恥」のシステムに、近代の効率性のパラダイムが重層的に積み重なったシステムだと言ってもいい。現在の日本型システムは、「人の目」に権威を持たせていくシステムに、効率性、合目的性のパラダイムが奇妙な具合に接合され、重層化されたシステムなのである。

 世間は効率性を求めている。世間はあなたに「意図」を抱いており、その「意図」が効率的に遂行されることを期待している。自分が存在する場には既に「意図」や「目的」があり、その目的に添って行動すればそこで認められるが、それに反する面を出せば排除される。あなた自身の「色」、ノイズを出してはいけない。それは過剰なものであり、決して歓迎されない。それは効率性を下げ、みんなに迷惑をかける。「世間から後ろ指をさされないように、効率的に生きなさい」これがこれまでの日本社会を覆ってきた意識に他ならない。

 「人の目」「意図」「効率性」それが現代の日本を覆っているシステムに他ならない。近代の病に冒されながら、しかし〈個〉の自由も確保されない。私たちは奇妙に歪められた日本型の近代を生きてきたのである。

 

「奇妙に歪められた日本型の近代」それは第3章、奪われる「安心」の場で、こう展開されている。

 

88p 強化された「効率性」への意識は、あなたがいま属している集団に安住することも許さない。これまでの日本型社会ならば、まずあなたがなすべきはあなたが属している集団の「意図」に対して最大の効率性をもって応えることだった。逆に言えば、その集団の「意図」に添ってさえいれば、その集団における居場所は確保され、ある程度の安定は得られていた。しかし、これからの「効率性」は、「いま私がこの集団に属していることは効率的なことなのか?」という問いを常に考えなくてはいけない「効率性」なのだ。

 

89p 常に自分のいる揚が、最大の効率性を確保できているのかどうか疑い、チェックし、もっと効率的な揚があるのではないかと考えながら生きる人生、いや常にそう「考え続けなければいけない」人生がそこには待ち受けているのだ。それは一生自分のいる場に安心できないという人生だ。五年前には最高の効率的選択だったいまの会社がいまその効率性を維持できるかの保証はない。だから私たちは毎年毎年、あるいは毎月毎月「この会社でいいのか?」と考え続けなくてはいけないのだ。それは実に厳しい人生でもある。そしてそこでは、自分の所属している集団や地域への愛着や信頼は一体どうなってしまうのだろうか。

 

そして第4章「数字信仰」から「人生の質」へ、ではこう述べられている。

 

101p 社会経済学者の佐伯啓思も、現在の日本経済を異常事態だと考えてしまうのは、経済成長という強迫観念に取り憑かれているからであり、「問題は、成長率ではなく、いかなる社会を作り、生活の内実をいかに豊かで充実したものとしてゆくかにある。経済成長はひとつのファクターではあっても、それ以上のものではない。問題は経済活動の「中身」である。こうした成長信仰こそ、いま、捨てなければならない」(『成長経済の終焉』2003)と指摘している。

 

102p 「経済成長」がもたらされ全体のパイが拡大すれば、国民すべてが同じように潤う時代は既に終わっている。勝ち組に報酬を多く分配する社会にと、社会の機軸は変化しており、現在の所得分配政策下では、経済成長は格差を広げる方向に働くのだ。それでも多くの国民が「まずは経済成長を」と思ってしまうのは、これまでの「経済成長教」の甘い蜜を忘れることができないのと、政府の巧みな誘導によるものだろう。そうではなく、真の課題はそれだけ膨大な所得を公正に分配し、誰もが安心して暮らせる国にすることであり、「成長」よりも「中身」が問題なのだと私も強く主張したい。

 

そして第5章では、132p いま私たちの社会に求められていること、それは「ひとりひとりが自分自身の「生きる意味」の創造者となる」ような社会作りである。

144p 私たちはひとりひとり別々の「生きる意味」の遍歴を持っているものだ。そして、その「生きる意味」の歴史は積み重なり、人生経験となって私たちの生きる意味をさらに深めていく。私たちの人

生とは、「生きる意味」の成長とともにあるのである。

 と、内的成長を描き、第6章では「内的成長へ」の道のりが書かれている。

 

 第6章の「新しいコミュニティーのあり方」を紹介する前に、第3章で著者が「グローバリズム」と「構造改革」への批判を行っている部分について触れておきたい。

 

グローバリズムの弊害 69p〜

 その第一は所得格差の拡大である。グローバル化は国際的にも国内的にも、圧倒的な貧富の差を生み出すシステムである。

 グローバリズムとは、経済学者のロバート・フランクとフィリップ・クックの共著『ウィナ・テイク・オール』(1998)の本の題名通り、「勝者がすべてを手に入れる」経済システムである。

70p〜 第二の問題は、自然環境と文化の破壊である。もしグローバリズムに対する環境フィルター、文化フィルターを持たないならば、その国の自然環境と文化はたちまちのうちに危機にさらされることになる。

 

 グローバリゼーションとは将来的にひとつの地球として地球規模で高次のルールを作って運営していくことが必要であり、強者が勝手なルールを作って弱者を支配するものであってはいけない。

 国際化とグローバリゼーションとは根本的に違う。厳密な定義を求めると長くなるので違う機会にして、簡単な説明をすると、国際化は2次元的でグローバリゼーションは3次元的で次元が違うという表現が分かりやすいかもしれない。違う表現をすれば、国家の会計ではなく世界で一つの会計を実現しようという未来像への挑戦とも言える。地域間の分業と役割分担を地球人として考え直してみようということであり、途上国の貧困層を犠牲にするものであってはいけない。

 今、グローバリゼーションは過渡期の生みの苦しみの中にあるといえる。理想的な姿になるには多分あと100年以上時間を必要とするだろう。それまで、混乱を最小限にする工夫を考えなければいけない。グローバリゼーションへの批判は改革への提言として重要ではあるが、「国民国家」のナショナリズムを原理化することは、人類の未来を閉ざすものであることを肝に銘じたい。

 

 「構造改革」の罠 72p〜

77p〜 社会経済学者の松原隆一郎は『長期不況論』(2003)で、現在の不況の原因は、むしろ「構造改革」がもたらす信頼の崩壊と将来に対する不安によるものなのではないかと論じている。「構造改革」論者は、それまでの日本型経済システムこそが経済停滞をもたらしたと非難し、そのシステムの解体を目指すが、その解体によりむしろ社会に対する信頼が失われた、それこそが不況の原因だというのである。

 それはまず第一に終身雇用制の解体である。「構造改革」の主眼は、前述のように、不況の原因は効率性の低い部門に雇用過剰が起こり、効率性の高い成長部門での雇用が促進されていないという「雇用のミスマッチ」によって起きているのであるから、これまでの終身雇用制を解体し、効率性の低い部門のリストラを促進して、成長部門への労働力の転換を行うべきだというものだ。そのことによってこれまでのような終身雇用制は終焉を迎えることになる。

 第二に、「土地のミスマッチ」の解消による「都市再生」が図られる。都市の中心部には住宅の需要があるにもかかわらず、供給が不足しているとして、オフィスビルの住宅への転用を促進する。そのことによって、いま日本各地の都市の中心部に超高層マンションが林立する状況となっている。都市景観やその街の築いてきた歴史的背景などはほとんど考慮されず、徹底して土地の「収益性」にこだわる。

 第三に、間接金融から直接金融への移行である。日本の場合人々の資産は現金や預金などの安全資産の割合が50%を越し、市場リスクを伴う債権や株式や投資信託の割合は十数%と極めて低い。これはリスク資産が50%を超えるアメリカに比べて格段に低く、日本人がいまだ「投資家」としては育っていないことを意味する。経済の活性化のためには、人々が金融機関に預金し、金融機関が企業に投資するといった「間接金融」ではなく、人々が直接企業に投資するような「直接金融」化を進めなければならない。ローリスク・ローリターンの預金から、ハイリスク・ハイリターンの株式や投資信託へと資産の持ち替えを進めさせ、ひとりひとりを個人投資家とする直接金融市場の確立が目指される。

 しかし、そのような「構造改革」によって不況は克服されたのかと言えば、現実には全くそうはなっていない。それは、現在の不況は人々の消費が停滞しているという「消費不況」がその本質だからだと松原は言う。市場の動きは鈍い。人々はお金を持っているがそれを使わず貯蓄に回しているからである。人々は投資するどころか、ますますリスクの少ない安全資産を貯め込んでいる。さらにこれまでは、人生の半ばまでは貯蓄しても、その貯蓄を人生の終わりにかけて使い切るという消費行動が見られたのだが、これだけ高齢化社会が進行しているにもかかわらず、高齢者の財布のひもも堅い。そのように、従来の政策的発想ならば、金融を緩和して金回りを良くすれば消費者はその金を消費し、物が売れてインフレになるはずだったものが、全くそうはなっていない。

 

 ここで述べられている不況の原因は、「社会に対する信頼が失われた、それこそが不況の原因」、つまり社会に対する信頼が失われて、将来に対する不安が財布の紐を硬くして消費が停滞して不況になっている、と言っている。そういう側面もあるが、問題の核心には至っていないので解決策がない分析で止まっている。構造改革は「それまでの日本型経済システムこそが経済停滞をもたらしたので、より効率的な経済システムへ改革しようとした」と言っているが、「構造改革」はそれほどの大改革ではではなく、経済財政状況が悪いので少しでも何とかしなければいけないという応急の処置であり、改革といえるものではなかった。

 日本の不況はバブル崩壊以降、日本の実体経済以上に円高であったという1点にある。それは日本の為替政策の失敗によるものであった。バブル崩壊以降、バブルの幻想が残っていた時期に円高の問題を問わなければならないと想像できた者は限られる。また、対米追従政策が為替問題を深刻にしていることを指摘した者も少ない。国力の過信と巨大な公的金融機関への依存と対米追従の政策が日本の不況を泥沼化させているのです。日本の貿易額は伸びていて、ものづくりが廃れたわけではないので、円安にして企業を楽にさせてやりたい。生産現場の海外への移転による、労働条件の悪化による内需の減少にも歯止めをかけてやりたい。日本の場合は人口構成に団塊の世代という著しく人口の多い世代があり、内需の急速な拡大と過剰供給の波があり、安定的な経済政策は難しい。見えざる手のコントロールが団塊ジュニア世代までは必要となる。日本は社会主義だといわれても、人口動態のバランスを欠いている間は市場経済をコントロールする必要があるだろう。

 

名著『藤巻健史の実践・金融マーケット集中講義』(光文社新書)で知られる藤巻は『日本破綻』講談社でこう述べている。

17p〜 私に言わせると、日本経済が低迷したのは市場原理が働いていなかったせいです。「多数の人が参加する効率的市場があれば、『見えざる手』で資源の最適配分がなされる」という市場原理が働いていなかったのです。「真の資本主義が発達していなかった」せいとも言えます。

 ・・・略・・・

 働いていなかった「市場原理」のうち、最も深刻なのは「為替市場の機能不全」です。「海外と国内の間を、資金が経済原理に基づいてきちんと移動しなかった」のが大問題でした。本来、資金とは、より高いリターンを求めて世界中を飛び回るはずです。しかし日本の資金は、海外に高いリターンの投資先があるにもかかわらず、それに目を向けてこなかったのです。為替市場に「市場原理」が働いていませんでした。そして政府は「市場原理」を発揮させる努力を怠っていたのです。

 1990年代までは、旧外為法で個人の海外投資が禁止されていましたから、法律的にも「海外に資金が十分還流」していませんでした。この結果、貿易黒字で貯めこんだ資金が海外に還流せず、国内に滞留し、1980年代後半に土地・株のバブルさえ引き起こしてしまいました。その処理に日本経済は多くのコストを払ってきたと思います。

 1998年に新外為法が導入され、個人資金の海外投資が解禁されたのは、日本経済にとって大変明るいニュースでした。この改正により、個人が海外の銀行に、資産運用を目的として口座を開いたり、海外の金融機関から直接、債券や株式を購入できるようになりました。資産運用の選択肢が拡大したのです。

 しかし、さまざまな理由で海外に資金が流れませんでした。海外の高利回り商品から、日本人は目をそらし続けてきたのです。市場が発運していれば当然達成されるはずの経済原則が、働いていなかったのです。その結果、資金が国内に滞留し、円が強いままとなりました。円を売ってドルを買う人がいなかったからです。

 ・・・略・・・

バブル崩壊以降、「円が実体経済に比べてあまりにも高すぎた」ために、日本経済が低迷し続けることになったのです。世界中でグローバル化が急速に進捗している時に自国通貨が強くなれば、国際競争に負け、日本経済が低迷するのは自明です。その際、政治家は、為替の水準がどこにあるべきかを考えずに、ただ「為替は安定するのが望ましい」と言い続けていたのですから、「ドル/円の低位安定とともに日本経済も低位安定」してしまったのは道理です。

 

 この藤巻の認識は正しい。日本の国債バブルが尋常ではないことと、国民の金融資産がアメリカの株や国債へ向う、健全な市場経済の感覚を皆が持っていれば、これほどの円高にはならなかっただろう。日本に健全な市場感覚が育たなかったことと、市民感覚が育っていないことは同根であり、日本国民の官僚への依存の高さが災いとなっている。官僚は不景気と庶民の苦悩とは一番遠いところにいて、危機感は薄い。国民が賢くならなくては、国は変わらない。

 円高の最大の問題点は労働賃金の問題です。円高になれば国際比較で国内の労働者の賃金は高くなり、国際競争力が弱くなるので、雇用問題で悪条件が提示されていくようになるのは当然の帰結です。雇用の悪化と高齢化社会による就業労働人口の減少は内需を縮小させデフレになるのです。それが悪循環となっていて、アメリカの対円高政策で不景気が加速する結果となっている。

 日本人は為替の問題をもっと真剣に考えなければならないだろう。

 藤巻は「ドル建て日本国債」の発行も言っている。今後の提言にも注目したい。

 

6章の「新しいコミュニティーのあり方」の紹介に戻る。

179p〜 経済学者の金子勝は、NPOやNGO、協同組合や産直ネットワークなどの新しい中間社会 は経済的にも非常に大きな意味を持っていると言う。第一に、こうした中間社会は、「市場の暴走」が及ばない領域にあるため、こうした集団が増えれば増えるほど、「市場の暴走」が人々の生活を直撃する度合いが低くなる。営利を求める団体ならばそれは「市場」と直結しているために、バブルや世界的恐慌などの市場の動向の影響をもろに受けてしまい、私たちの生活そのものがリスクに曝されることになる。しかしここまで述べてきた、「新しい中間社会」は市場とリンクしていないが故に、経済の動向に左右されないものであり、こういった公共領が社会に多く埋め込まれることによって、社会の安定性は格段に増加するのである。

 第二に、こうしたコミュニティーを創り出す動きが、市場自体を変えていく。市場は利益追求を原則とするので、人々のニーズに沿った安全なサービスや、望ましい働き方や職を必ずしも提供してくれない。それ故、特に環境、介護、福祉などの領域苦手である。しかし、市場競争の中にそれらの分野のNPOやNGOが競争者として立ち現れることになれば、企業もそうした団体と競争せざるをえなくなり、営利を求める企業の側も利殖だけではなく人間的側面に配慮せざるをえなくなるというのである(『反グローバリズム』1999)。

 

 私はこの「新しい中間社会」が現在、有効に機能し発展することを望んでいるが、個人的な考えで言うと、企業の社会的責任が発展した形の「未来を経営する企業」に「新しい中間社会」はやがて吸収されるだろうと考えている。営利は未来に投資されるのが成熟した資本主義であるだろう。

 古くに石田梅岩が商人の子らに「儲けは、世間のお金を預かっているだけで、生活は質素倹約し、儲けを自分のために使ってはならず、世の役に立つことに使え」と教えたが、それが未来に投資することであるのだろう。

 本書での

 セルフヘルプ・グループ

 ワークショップ型コミュニケーション

 宗教者たちの挑戦

 も大いに参考になった。

133p いま私たちの社会に求められていること、それは「ひとりひとりが自分自身の「生きる意

味」の創造者となる」ような社会作りである。

 

 本書のこの言葉の意味の深さを心に深く留めおきたい。

posted by: 応援しよう東北!(雑華堂) 小嶋隆義 | 読書日記 | 21:06 | - | - | - | - |
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