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『生と死を考える」8 満足という取引について
JUGEMテーマ:日常
 

(『闇の中に光を見いだす』貧困・自殺の現場から 清水康之、湯浅誠 岩波ブックレット)

を読んでいて、ハッ!とした。

・・・・・

6p

スポーツの世界が注目されるようになったのが、90年代半ばという感じがしています。その頃、ニユース番組におけるスポーツコーナーの占める比重や、新聞におけるスポーツ報道の占める割合が、それまで見開き一枚だったスポーツ欄が二枚になったというように、感覚的には二倍になりました。

 自由競争、弱肉強食原理が貫徹しているプロスポーツの価値観が、それまで以上にもてはやされるようになっていく。「強い者が勝ち、弱い者が負ける」「弱い者が負けたのは弱いゆえに負けたのであって、言い訳は通用しない。結果がすべてだ」というメッセージが社会全体に浸透し、プロスポーツの世界が我々の世界の非常に純粋なモデルとして、経済的な自由競争の導入とセットで持ち上げられていったのではないか。そうなると、人々の考え方も、「これまでは「護送船団方式」とか言われたけれど、ちんたらしているやつなんて切り捨てていかないと、社会全体がもたない」となっていく。

 これが2000年代前半までのことでした。そのことは、私が現場で活動している中で、どんどん野宿の人が増えていくというところからも見えてきました。 

・・・・・

 ハッ!と、

世の中に蔓延する「勝ち組」「負け組」の評価と、学校教育の「偏差値」「内申書」の評価という社会から与えられる個人への評価と、バブル崩壊以降急速に変化していった個人の価値観が求める社会との関係のあり方が、乖離しているのではないか、ということを考え始めた。

 

求められていることと、求めることが、離れ離れになっていっている時代ではないのだろうか?その距離が埋めがたいものであり、その狭間で半ば強制的に揺り動かされ、疲れきっているのが、社会的弱者ではないのだろうか、という考えです。

 

自殺者は60歳からが多く、学校教育の「偏差値」「内申書」の時代ではなかったが、高度成長時代に産業に社会化した人間が生み出した評価基準なので、当然のこととして会社でも子育てにも、いやというほどその世界にどっぷりと漬かってきたわけです。自己が、弱者となって、社会からも家族からも落ちこぼれている自己への評価があるから、「ごめんなさい」「許してください」と謝りながら、死んでいくのではないだろうか。

 

自己が同心円的なアイデンティテーで成立し、社会の評価を得て暮らしている間は、落ちこぼれという評価基準も分かりやすかったので、社会の中での棲み分けも簡単明瞭に形成された。バブル崩壊から10年が過ぎて、失われた10年が生んだものは、中流層の崩壊だった。そして、落ちこぼれの中にも格差が生まれた。まだ落ちこぼれたばかりの中流層を励ました言葉が、「大変な時代だが、アイデアと行動力で、負け組みにはなるな」だった。しかし、それは同心円的なアイデンティテーの延長線上にあり、複雑化する社会で、どこまでが落ちこぼれで、落ちこぼれではないのか線引きが難しい時代に、「勝ち組」「負け組」の表層にアイデンティテーが踊らされた時代とも言える。

 

世の中に確かに勝ち組の人達がいるようだが・・・。新しい時代の産業として、経済産業省に表彰された企業が短期間で倒産し、ハイエナ自由主義者といわれる人たちも一時期は物凄く持て囃された。でも、彼らも負け組みではないのか。日本の食糧事情を悪化させているだけのB級グルメのチェーン店や、本当は中国に儲けさせているだけの企業や、詐欺のような証券で儲けているアメリカに媚び諂う連中や、老人の不安に付け入ったビジネスが勝ち組なのか。という疑問も投げかけられている。果敢に時代の先端に挑戦した者が負け組で、敗者にとても厳しい現実を見せ付けられて、再起の機会を失っている者も多い。ナンバーワンからオンリーワンと事業を縮小して倒産した企業も少なくはない。不確かな「勝ち組」「負け組」のレッテルの実情に、「勝ち組」の掛け声だけが虚しく響く時代です。

 

そもそも「勝ち負け」というジャンケン評価そのものがおかしい。社会にどれだけ貢献できたかという評価が必要なのです。永遠に引き分けであることの方が多いのも現実であり、「勝ち負け」で言えば、圧倒的に敗者が多いのが現実で、「勝ち組」「負け組」をジャンケンのように平等なチャレンジの結果だと思わせる、トリックが社会に存在することも見破っておかなければならない。

 

複雑化する社会とはグローバル化のことです。グローバル化とは、経済や通信が世界基準になることでもありましたが、価値観が多様化するということでもありました。

多様な価値観の時代には、必要な価値と結びついて「自己といわれるもの」が形成される。なぜ「自己といわれるもの」で厳密に言えば自己ではないのかといえば、自己は外部に規定されているからで、外部の状況によって自己は変化していくものだからです。変化を柔軟に受け入れて、複数の自己と上手に付き合う必要のある時代であるのです。

自己と付き合いが未熟な場合は、多元化した自己が、状況や相手を無条件に受け入れて、自己がどの自己か区別がつかなくなってしまいます。つまり、本物であろうと偽者であろうと自己は自己であるということになり、偽者との親密性も高くなる、ということです。これは行き過ぎた依存と、依存からの裏切りによる自己破壊が、往々にして起こります。

 

価値が多様化するということは人間関係も多様化するということです。古い伝統的な人間関係から見ると、希薄な人間関係に感じます。国が会社が社会が家族が、人間関係を保障するもので無くなっていくことが、グローバル化が突きつける問題点でもあるわけです。それは自由とプライバシーと引き換えのものです。人々が保障された、与えられた「しがらみ」を望まなくなっているのです。

 

生活していくうえで必要な社会関係を結び、互いに結びつきを継続していくための条件が、相互の暗黙の契約として登場します。満足という契約です。言い換えれば人々は満足を取引して社会に参加しているわけです。周囲を絶えずモニタリングし、相手が満足しているか、自己が満足しているか、をコンパスにして、進路を決めている。自由と親密さを天秤にかけながら、人生の重さを量っているのです。

しかし、こういう高度な人間関係、社会との契約が求められる時代とは、「勝ち組」「負け組」や、「偏差値」「内申書」という、一方通行の外部からの評価とは馴染みません。そういう、行動を制限する生産労働に隷属的に従事するための評価基準ではグローバル社会を生き抜くことが難しくなっているのです。

 

グローバル社会で、どんな未知なる相手と向き合っても、相手を理解できる能力とは、自分と相手とどれだけの満足を取引できるのかを、話し合えるコミュニケーション能力にかかっているということになります。

 

ひたすら内部志向を喚起し、自己の努力さえあれば、社会が引き上げてくれる時代ではないのです。多角的に物事を捉え、必要な情報を選択し、互いの満足度がどの程度満たされる必要があるのかを設計し、多様な価値観やライフスタイルと共存する技術が求められている時代に、一方通行の外部からの評価は、時代を生きる力を削いでいることになります。

 

 

社会が一定の豊かさを達成し、それぞれの価値観に意味を重視する時代には、絶え間ない観察・点検・修正を繰り返しながら、その反省性が社会を推し進めることになります。

 

自己の分裂と融合を巧みにコントロールする力を身に着ける教育と評価が必要だということです。自分は何を引き受けることが出来て、何を引き受けることが出来ないかを判断する能力や、自分が自由であるのか自由でないのか、どこまで自由であることが出来るのかを、計る能力は、固定的に引き受けてしまった自己をいったん分裂させて、社会学的な分析のあり方を身につけて、調和的に融合する、自律を獲得する必要があるのです。

 

ここで問題となるのが、どうしてもこのようなコミュニケーションが身に着けられない人々への保障をどうするかということです。

それはコミュニケーションを身に着けられなかった人々から学ぶことが早道です。最もコミュニケーションを不得意とした人々をいかに減らすのかが、コミュニケーション能力を誰でもが手に入れる方法ということになります。病を治療することで、予防法も獲得しようということです。

 

前回のブログで紹介した事例ですが、

自殺の要因が9つという人の場合。

過労→休職→配置転換→職場の人間関係→失業→やむを得ず起業→負債→夫婦間の不和→うつ病

 

自己が同心円的なアイデンティテーで成立している、個人の問題として言うのならば、粉々に何度も粉砕されている。そしてそのことがより一層自分を苦しめていることになる。

焦燥、嫌悪、失望、度重なる喪失感がうつ病となっているのだろう。彼はなぜ過労で休職するまで働いたのだろう。彼はなぜ職場の人間関係がうまくいかなかったのだろう。人間関係を改善する方法はなかったのだろうか。失業を止める者はいなかったのだろうか。起業するときの計画を相談できる相手はいなかったのだろうか。夫婦で助け合えることはなかったのだろうか。彼はうつ病になるまでに、自分のコミュニケーション能力に疑問を持つことは無かったのだろうか。多くの疑問が起こる。

過労の時点で「勝ち組」「負け組」や、「偏差値」「内申書」という類の評価の呪縛から離れることは出来なかったのだろうか。日本は終身雇用制だったが、リストラという新しい時代を象徴する雇用関係が生まれた。残った者たちが我武者羅に穴埋めをしようとする。ほんの少しの休養も認められない程であったのだろうか。自分で、落ちてはいけないと思い込んでいただけではないのだろうか。どこかで、相談できるところがあったのだろうが、多分、自己責任で突っ張ってしまったのだろう。過労で休職するまで働き続けた人だからこそ、うまくコントロールできていれば、企業にとっても得ではなかったのだろうか。この働き盛りの損失は大きい。

 

企業がグローバル化すれば、雇用のあり方も新しくなる。雇用のあり方が新しくなれば、新しいセーフティネットも必要になる。セーフティネットに、自分のコミュニケーション能力を身につける、スキルアップ講座も必要ではないのだろうか。

グローバルの時代には、語学もITもファイナンス等の技術も必要だが、最も必要なのはグローバルに対応するコミュニケーション技術ではないだろうか。

 

資本主義は労働者が市場であることを見つけ、新自由主義は格差をビジネスにした、競争社会と不安がマネーになっていった。次世代のグローバルスタンダードの高次元なルールを求められる社会は、「心が弱いから死んだ」という、その呪いのような言葉が無くなっていなくては、成立しない。

posted by: 応援しよう東北!(雑華堂) 小嶋隆義 | 日記 | 19:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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