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映画「キャタピラー」の正義について
JUGEMテーマ:映画館で観た映画
 

815日は若松孝二監督の「キャタピラー」という映画を見てきた。大阪では監督と出演者の舞台挨拶があったようだが、神戸のシネルーブル神戸は毎月15日が1000円の日ということで、舞台挨拶より割引料金を選んだ。実はそれだけの理由でもなかった。出来上がった作品は監督の手を離れるので、監督のものではない。公開された作品は観客のものなので、舞台挨拶で変な先入観が邪魔をしてはいけないとも思って、あえて舞台挨拶を避けたという理由もある。若松監督の映画を見るのはこれが初めてだから、少し拘りも持った。

 

あらすじはホームページを見ると、以下のように書かれている。

■あらすじ

一銭五厘の赤紙1枚で召集される男たち。シゲ子の夫・久蔵も盛大に見送られ、勇ましく戦場へと出征していった。しかしシゲ子の元に帰ってきた久蔵は、顔面が焼けただれ、四肢を失った無残な姿であった。村中から奇異の眼を向けられながらも、多くの勲章を胸に、「生ける軍神」と祀り上げられる久蔵。四肢を失っても衰える事の無い久蔵の旺盛な食欲と性欲に、シゲ子は戸惑いつつも軍神の妻として自らを奮い立たせ、久蔵に尽くしていく。四肢を失い、言葉を失ってもなお、自らを讃えた新聞記事や、勲章を誇りにしている久蔵の姿に、やがてシゲ子は空虚なものを感じはじめる。久蔵の食欲と性欲を満たす事の繰り返しの日々の悲しみから逃れるように、シゲ子は「軍神の妻」としての自分を誇示するかのように振る舞い始める。日本の輝かしい勝利ばかりを報道するニュースの裏で、東京大空襲、米軍沖縄上陸と敗戦の影は着実に迫ってきていた。そして久蔵の脳裏に忘れかけていた戦場での風景が蘇り始める。燃え盛る炎に包まれる、中国の大平原。逃げ惑う女たちを犯し、銃剣で突き刺し殺す日本兵たち。戦場で人間としての理性を失い、蛮行の数々を繰り返してきた自分の過ちに苦しめられる久蔵。混乱していく久蔵の姿に、お国の為に命を捧げ尽くす事の意味を見失い始めるシゲ子。1945年8月6日広島、9日長崎原爆投下。そして15日正午、天皇の玉音放送が流れる中、久蔵、シゲ子、各々の敗戦を迎える。

 

映画の仕上がりは、鉈一本で木を刻んだ円空仏の印象を受けた。同じようなシーンのリフレインが映画を単純化し、映画の意図を記号化している。天皇、戦争犯罪、人間の欲望。緻密に作られた映画ではない。道で拾った木に彫った「木端仏」のような荒々しい作りだ。映画が言おうとすることも複雑ではない。家の前にある池に月が映る。空に月があり、家の前にも月がある。その月もまた、現実であり、夫・久蔵を呑み込んでいく。この単純さが、庶民のあばら屋の隅に飾られた祈りのような、一途さを感じる。

 

寺島しのぶの演技は素晴らしかったが、目頭の眼鏡の痕が気になった。映画の中で彼女が眼鏡をかけているシーンはない。蝉が鳴いているのに、久蔵が寝ている蒲団が分厚いとか、芸術家KUMAが太りすぎていて緊張感がないとか、婦人会の一人の眼鏡が高級品過ぎるとか、主題歌の「死んだ女の子」は7歳の子の歌なのに、映画に「死んだ女の子」とイメージがつながる子供が出てこない不自然さが気になった。私が監督なら赤い着物を着たKUMAに、赤い着物を着た日本人形を抱かせていただろう。

 

寺島しのぶの演技以外はすべてが断片の繋ぎ合わせだった、と言える。監督にとってはそれが、断片ではなく断面であったのかも知れない。繋ぎ合わせていることをあえて見せることで、なめらかにつながらない現実の不条理のようなものを見せたかったのかも知れない。大きな石がゴロリゴロリと転がるような、止められない宿命のようなものかも知れない。

 

映画の主題歌はいい歌だ。元ちとせのCDも買って帰った。映画の主題歌の飴と、蛍の墓の節子の骨の入ったドロップカンのイメージが重なるのは、ここが神戸だからだろうか。

 

若松監督は「正義の戦争なんて、どこにあるんですか?」と問いかけている。

では、若松監督の言う正義とは何なのだろう。

公式ガイドブックにはこう述べられていた。

『僕は、1982年、パレスチナ難民キャンプ、シャティーラキャンプの大虐殺の直後に現地入りをしたんです。キャンプの中は死体の山ですよ。しかも、女性や子どもばかり。子どもは将来フェダイーン(戦士)になるから、そして女性は、フェダイ〜ンとなる子どもを産むからという理由でイスラエル軍によって殺された。一番弱い存在が、攻撃を受けたのです。

 戦争とは、そういう事です。

 日本は、アジアを欧米支配から解放するのだといって、戦争を始めた。

 大国によって分断され、泥沼の朝鮮戦争が始まった。

 アメリカは、ベトナムの解放だといって北ベトナムを爆撃した。

 大量破壊兵器を捨てさせるべく、イラク戦争が始まった。

 いろいろな国の大義名分が付けられますが、でも、正義の戦争なんて、どこにあるんですか。繰り返しになりますが、戦争は、殺すか殺されるかなのです。人間が人間を殺すんですよ。

 この映画では、戦争とは何なのか、戦争によって人間が破壊されていくとはどういうことなのかを、正面から描きたかったのです。それも、派手な戦闘シーンなどではなく、人間を通して描きたかった。

 戦争を知らない世代の人でも、シゲ子の状況は、なんとなく理解できるでしょう? 抑圧され続けてきた彼女の思い、彼女を取り巻く空気の重たさ、そういうものは、なんとなくリアルに感じ取ることができるのではないかと思っています。

これが戦争なんだ、ということを、戦争を直接知らない若い人たちにも理解して欲しい。どうか、あの悲惨な戦争のことを忘れないで欲しい。そして、国家による殺し合いに、加担する側にはいかないで欲しい、そういう思いを込めたのが、この作品なのです。』

 

若松監督にとって、この映画を撮るということが正義だったのだろう。

 

マイケル・サンデルの『これから「正義」の話をしよう』早川書房には

『正義には美徳を涵養することと共通善について判断することが含まれる。』とある。

戦争が美徳を涵養することがあるのか、共通善について判断したうえでの戦争はあるのだろうか。

 

昨夜にたけしの番組に安倍元総理が出ていた。

マイケル・サンデルの『これから「正義」の話をしよう』早川書房には

こんなことも書かれている。

 

9章 たがいに負うものは何か?―――忠誠のジレンマ

歴史的不正に対する公的謝罪をめぐって、苦悩に満ちた議論が数多く繰り広げられてきた。

謝罪と補償 270p〜

 

『日本は、戦争中の残虐行為への謝罪にはもっと及び腰だった。1930年代および40年代に、韓国・朝鮮をはじめとするアジア諸国の何万人もの女性が日本兵によって慰安所に送られ、性的奴隷として虐待された。1990年代以降、日本はいわゆる「慰安婦」への公式の謝罪と損害賠償を求める国際的圧力の高まりに直面してきた。1990年代には、民間の基金によって被害者への支払いがなされ、日本の指導者たちもある程度の謝罪を行なってきた。しかし、2007年になってから、当時の安倍晋三首相が、慰安婦の強制連行の責任は日本軍にはないと強弁した。それに対してアメリカの連邦議会は、慰安婦の奴隷化への日本軍の関与について日本政府が正式に認め、謝罪することを求める決議をした。』

 

ドイツのホロコーストへの賠償金について、オーストラリア政府の先住民族への責務について、アメリカの奴隷制度の後遺症について、その謝罪の態度について語り、安倍元総理の強弁とを比較している。しかし、アメリカの連邦議会の謝罪することを求める決議も正義だとは書いていない。

273p

『公式謝罪を正当とする主な理由は、政治共同体の手によって(あるいはその名において)不正に虐げられた人びとを追悼し、被害者とその子孫にいまなお及ぶ不正の影響を認め、不正によって害を与えたり、それを防ぐのを怠ったりした側の過ちを償うためだ。公的な姿勢としての公式謝罪は、過去の傷をふさぎ、道徳的・政治的な和解の基礎づくりに役立つ。賠償金やそのほかの形の金銭的補償も、同じ根拠によって、謝罪と償いの具体的な表現として理にかなっている。被害者やその子孫におよぶ不正の影響を軽減するのにも役立つ。

 これらのことが謝罪の根拠として十分かどうかは、状況しだいである。ときには、公式謝罪や補償の試みが有害無益となることもある。昔の敵意を呼びさまし、歴史的な憎しみを増大させ、被害者意識を深く植えつけ、反感を呼び起こすからだ。公的謝罪に反対する人びとはそうした懸念を表明する。結局、謝罪や弁償という行為が政治共同体を修復するか傷つけるかは、政治的判断を要する複雑な問題なのだ。答えは場合によって異なる。』

 

日韓戦後処理問題についての菅総理や仙谷官房長官の発言は、国民に韓国へ謝罪をする十分な根拠を示しただろうか。個人的賠償をするのならば、それは国民の税金である。「政治的判断を要する複雑な問題なのだ。答えは場合によって異なる。」というサンデルの言葉は、政治家の国民への態度も問題としていることを忘れてはならない。

 

猪瀬直樹の『日本の信義 知の巨星十人と語る』小学館 の

高坂正堯との対談で猪瀬はこう語っている。

113p

『謝るか強弁。どっちも思考停止で、戦後の日本人の精神安定用の文脈です。』

 

同書で、吉本隆明と猪瀬はこう対談している。

71p

『吉本 たとえば、従軍慰安婦賠償問題。村山とか武村(正義)とかいわゆる昔は左翼的、進歩的だった人たちは、国民運動をして賠償金を払おうなんていう。そんなバカな発想をするやつは許しておけねえ。当時の軍隊は戦場に慰安婦を連れていくのが当たり前だったですよ。人間の性の本質の問題でもあるんだ。これは国家が制度として賠償する以外に、絶対ないです。

猪瀬 しかし小沢一郎はイデオロギーの面では賠償反対の人びとに支持されている。いっぽうで小沢は皮膜を破ろうとしている。そこが小沢一郎をわかりにくくしていると思う。イデオロギーで保守だけれど、徹底した合理主義者であろうとする。これは一種の矛盾なんですね。・・・

・・・合理主義の極致を突き詰めると、どこかで天皇制にぶつかる。』

 

9411月の対談です。民主党の困難は小沢の矛盾でもあるようだ。

 

吉本は「国家が制度として賠償する」ことが信義だと言っている。

もともと戦争は個人的にできるものではないが、久蔵の「逃げ惑う女たちを犯す」蛮行の罪が、許されるわけでもない。戦争だから仕方がなかったという言い方は、戦争を肯定するものの貧弱な言い訳にしか過ぎない。正義とは、信義とは、一人ひとりが責任をとることだ。個人が無力であるならば、集団も無力であり、国家も無力だ。戦争に反対ならば、一人ひとりが大きな声で反対だと叫ばなければならない。

 

正義とは、人任せにせず自分で責任を持って立つことから始まる。保守であろうと合理主義者であろうと、国や集団に甘えていては正義とは遠い。

 

若松監督の「忘れるなこれが戦争だ」は久蔵、シゲ子のそれぞれに戦争がある。一人ひとりに戦争があるのならば、一人ひとりが戦争と向き合わなければならない、というメッセージであるのだろう。

 

日本は2017年からの崩壊が本格化する日に向かって、一日一日が過ぎている。2025年、気がつけば大量の犠牲者が出て、敗戦という過去の過ちを繰り返してはいけない。一人ひとりが責任を持って、明日に取り組まなければならない。テレビばかり見ていては何も得られない。本を読め。とりあえず『2020年、日本が破綻する日』小黒一正著 日経プレミアシリーズを読むべし。

 

posted by: 応援しよう東北!(雑華堂) 小嶋隆義 | 映画レビュー | 08:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
映画「ザ・コーブ」に物申す。
JUGEMテーマ:映画館で観た映画
 

映画「ザ・コーブ」を見て一カ月が過ぎた。とてもよくできた映画だったが、釈然としないものが残って悶々としていた。何が言いたいのか、何が目的なのか、なぜアカデミー賞が与えられたのか?

 

パンフレットのレビューを見ると

「これは本物の恐怖だ」

 (ウォールストリートジャーナル紙)

「スパイ・スリラーのような展開で、驚くほどよく作られたドキュメンタリー。」

 (ニューヨーク・タイムス紙)

「パワフルで面白い。サスペンス・テイスト。近年稀に見る映画。」

 (ボックス・オフィス・プロフィッツ)

「ぞっとするようで美しい。悲劇のバレエのような作品。」

 (ゴア・ヴァービンスキー/パイレーツ・オブ・カリビアン監督)

「信じられないくらい感動的で、恐ろしくて、わくわくする素晴らしい作品。

ここ数年見たドキュメンタリーの中でもベストのうちのひとつ。」

 (クリス・コロンバス、ハリーポッターと賢者の石 監督)

 

ここに書かれているレビューの通りだ。これほど周到に計算された、ドラマティックに撮られたドキュメンタリー映画を今までに見たことがない。私がアメリカ人だったら、手放しで褒めていたが、日本人だから、何かが引っ掛かった。

 

この映画がアカデミー賞を取ったのは、オバマ大統領の政策と大いに関係がある。環境政策と社会起業家支援です。グリーン・ニューディールと社会起業家庁や社会投資基金ネットワークの設立によって、シリコンバレーはグリーンバレーと呼ばれ、IT革命はグリーン革命と呼ばれるほどの環境市場ビジネスが隆盛している。「キャピタリズム マネーは踊る」マイケル・ムーア監督が描いた世界は、すでにアメリカにとっては過去のものだったのです。ITバブル、住宅バブル、怪しげなファイナンスから未曾有の金融危機と至ったアメリカンドリームは、今度は「スピリット・イン・ビジネス」を語り始めた。

 

ナチュラルステップという言葉を聞いたことがあるだろうか?解説は後日にするとしよう。

ビジネスは人(People)、地球(Planet)、そして利益(Profit)の3つのPを統合することで生み出すメリットを見つけた。ただ只管に利益を求めることから、利潤追求を超えた社会的使命を経営に取り入れていくようになった。人権、地球環境、利益のトリプルボトムラインに献身することが、企業が生き残れる条件になったのです。地球をより住みやすい場所にするために、社会的利益を増やすビジネスを創造し、目的意識と満足感に満ちた人生を歩むことが、ビジネスマンの理想となったのです。手っ取り早く言えばビジネスに「善意」の二文字が必要となった。

 

『ソーシャルビジネス入門』を読んでもらいたい。

「社会起業で稼ぐ」新しい働き方のルール 日経BP

ベン・コーエン/マル・ワーウィック=著 斎藤槙/赤羽誠=訳 

155p

セブンス・ジェネレーションには、核となる価値観が6つある。それは、ブランドに対する信頼感の醸成、「あっ!」と言わせるサービスの提供、社会的・環境的責任の推進、業務を通じたスタッフの人間的成長の機会と達成感の提供、コミュニティの質の向上、そして企業のリーダーシップにおけるお手本となること、すなわち同社が事業展開する市場において、社会変革の原動力になることである。セブンス・ジェネレーションは自らが信じる価値観を表明すること、そしてその価値観と一致しながらビジネスができているかどうかを確かめることに多くの時間を割いている。』

 

今までのソーシャル・エンタープライズのイメージで言うと、とにかく社会的なイノベーションがあればよい、という非営利的なものが中心だった。そこに企業と非営利組織のパートナーシップを結んだものがあった。しかし、今は上記のセブンス・ジェネレーションのような利益獲得と社会的目標を調和させるハイブリッド型が主流となっている。そこに、人類がもたらした環境破壊への反省が加わり、「クリーンな地球を次世代へ、社会環境を整備し、エネルギーの転換を図る」事業が、「優しさと、尊厳と、正義」によって行われる、ハイブリッド型ソーシャル・エンタープライズとなっていく。

 

映画「ザ・コーブ」が言わんとしたことは、人口3千数百人の小さな町・和歌山県太地町で行われている、全長20メートル弱の小型漁船十数隻、20数名で行われているイルカ追い込み漁が、ビジネスとして許されるのか?という問い、である。オバマが誕生した後だからこそ、この問いが生きた。単なるイルカが可哀相だという主張ではない。イルカがビジネスになっている、そのビジネスは「優しさと、尊厳と、正義」に貫かれているかと問いかけて、罰を与えられることを望んで作られた、巧妙なロジックで武装した映画である。クジラは環境保護の世界的シンボルであることも射程距離に入れた文化戦争といって良い。しかしこの戦争は、初めから日本の敗北は決まっている。映画の世界で、数々の映画祭という法廷で受賞という有罪判決を受けたが、日本側に敏腕な弁護士がいない。

 

太地町の追い込み漁師達は、降って湧いたような災難としか言いようのない、有罪判決に戸惑っている。しかし、かろうじて一人、気を吐いて、追い込み漁を正しく伝えている科学者がいる。

 

イルカやクジラの解剖作業を無形文化財に登録し保存すべきだ、と言い。「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されているが、これに追加登録をすることは考えられないだろうか、と言い。クジラ肉を松阪牛のようなブランドに育てたいと言う、剛の科学者がいるのです。

 

『イルカを食べちゃダメですか?』 光文社新書

科学者の追い込み漁体験記  関口雄祐著  が面白い。

 

映画の制作側のOPS(海洋保護協会)は「この映画は、太地町の漁師たちを攻撃するために撮影したのではない」と語っているが、関口氏によると・・・

 

202p

・・・映像の中のショッキングなシーンは、現実よりもリアル感がある。つまり、デジタル技術による映像処理は臨場感に欠かせないものだろう。たとえば、捕殺作業によって海面が赤く染まるシーンがある。この映像自体が10年近く前に撮影されたもののようだが、さらに「赤さ」を後処理しているのではないかと疑いたくなる。捕殺作業で流血するのは当然なのだが、現場は何頭ものイルカと人が泳ぎまわり、海底の砂を巻き上げ混濁した海水となる。そこへ血が流れ込んでも濁ったような赤さになるのであり、私が経験した限りでは映画で描かれた「鮮血」のような赤さにはならないのだ。

 

あえて、過去の、より残酷な補殺映像を持ち出して、CGで色付けをする。明らかに太地以外のイルカ漁の映像、そして撮影場所の確かめようのない映像を張り合わせている、過剰な演出は太地町の漁師たちを攻撃するためとしか、言いようがない。「日本人には知る権利がある。そして、映画で語られる事実について考えてもらいたい。ただそれだけだ」と制作側は言っているが、それは違う。「日本人自身がイルカ漁に罰を与えよ、でなければ日本人全体が共犯者である。」とこの映画は言っている。最後の交差点でTV画面を持って立っている、リック・オリバーの姿の意味は、行きかう人々の無関心が、この罪をのさばらせている「行動せよ、日本人」という、メッセージです。

 

イルカ漁は、法に従い、許可された鯨種を許可された範囲で捕獲していることは、反捕鯨団体にとって関係がない。反捕鯨は彼らにとって「正義」なのだ。

 

『これから「正義」の話をしよう』 早川書房

いまを生き延びるための哲学 マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳

というとても饒舌な本がある。

340p

市場は生産的活動を調整する有用な道具である。だが、社会制度を律する基準が市場によって変えられるのを望まないならば、われわれは市場の道徳的限界について公に論じる必要がある。

344p

道徳に関与する政治は、回避する政治よりも希望に満ちた理想であるだけではない。公正な社会の実現をより確実にする基盤でもあるのだ。

 

つまり、アメリカのエリートの多くは、イルカをアミューズメントパークで見世物にすることやイルカの肉を食うことが道徳的ではなく、日本人は世論によって政治的な決着を図るべきだ、と思っているということです。

 

イルカが自殺をしたり、見世物になったストレスで胃潰瘍になったり、子も妊娠したメスも無差別に追い込む漁や、水銀で汚染された肉は、「善」なのか、と問い詰めてきている。では、日本に投下された原子爆弾は善なのか、中東での戦争は善なのか。イルカの知能が高いから、人間の勝手なビジネスの道具にしてはいけないというのなら。彼らにとって、日本人やイスラムの民はイルカ以下だということになる。野生動物が世界共通の資産だというのならば、日本人やイスラムの民は野生動物以下ということになる。アングロサクソンの優生思想は、賢いイルカを殺してはいけないが、馬鹿な日本人やイスラムの民は無差別に殺してもよいということになっている。難癖をつけているわけではない。彼らの正義とは所詮そんなものだと言っているのです。

 

決められたルールの中で、ルールに従って行われている漁に難癖をつけているのは映画制作側だ。この映画はアメリカのソーシャルビジネスブームの提灯持ちをしている映画に過ぎない。

 

でなければ、もっと事実に忠実に、偽りなく映画が作られていたはずであり、民の生活も描かれていたはずだ。彼らはアメリカの先住民族にしてきたことを何の反省もしていない証拠が、この映画だと言える。彼らの正義は所詮、彼らだけの正義にしか過ぎない。この映画のルイ・シホヨス監督は「反日映画ではない」と言っているが、それはその通りだ。この映画は「行き過ぎた啓蒙主義による、理性の履き違い映画」である。環境保護思想を唯一絶対の神的存在としてとらえた人々にとって、海獣をも神とする多神教の自然と暮らす民の文化がわかるはずもない。

 

監督はこうも言っている。「私は伝統というものを理解していますが、イルカを殺すという伝統はどのレベルで考えても必要だとは思えません。」

イルカと暮らすという伝統を、イルカを殺すという伝統に作り替えた監督の伝統とは、「帝国主義による、少数民族への迫害」であるから、彼らは彼らの伝統に則った映画制作であったのです。

 

『イルカを食べちゃダメですか?』の188pを紹介したい。

『くじらの文化人類学』

「捕鯨者も自然の生態系の一部であるという考え方の存在は、捕鯨考たちが、捕鯨技術と鯨の繁殖、回遊、索餌行動に関する広い知識をもっていることを示している。つまり鯨と自然と人間の間に存在する親密な関係を熟知しているのである。これは単に海洋生物に関する『幼稚な』知識ではなく、何世紀もかけて学習された文化的知識であり、人類全体にとっても価値のあるものである。この生態系的知識は信仰によって強化されている。それは、『子鯨を連れた母鯨を捕獲しようとしたために』111人もの鯨捕りが死んだ太地の大遭難のような、海難事故の受け止め方とその原因帰属のとらえ方にも明瞭に表われている。この出来事は、今日捕鯨コミュニティーの世界観の中にしっかりと組み込まれている。われわれの考えでは、このような信念は、正当な土着の資源管理体制の一部とみなされるべきである」

 

映画は813日まで大阪 第七芸術劇場で上映されている。後、数日しかないが、見ることを勧めたい。そして『イルカを食べちゃダメですか?』は必ず読んでもらいたい。

 

posted by: 応援しよう東北!(雑華堂) 小嶋隆義 | 映画レビュー | 15:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |